レースの苺
フェイクファーの下にあったのは、やはり機械時計のこぐまだった。
「だいじょうぶ。助けてあげる。絶対に助けてあげるから」
機械時計のこぐまにというより、自分自身に言い聞かせるために言った。
だけど、どうすればいいんだろう。管理人さんがレースの苺を編むのに必要だと言った白紙も機械時計のこぐまも揃った。アイリッシュクロッシェレースの苺の編み図はわたしの頭と手の中にある。これから、どうすればいいんだろう。この白紙と機械時計のこぐまで、どうすればレースの苺を編むことができるのだろう。
こうしている間にも、砂時計の砂は落ちていく。
どうすればいい、どうすれば…… 。
いっそ、砂時計を反転させてしまおうか。反転させれば、時間が戻って始めからやり直せるかもしれない。切り株の上の砂時計を動かそうとしたが、硝子は微動だにしない。それなら、棒テンプを止めればいい。砂の流れも止まるだろう。だけど、止め方がわからない。青年があんなにも
他の誰かには簡単にできることが、わたしにはできない。
砂時計を動かすことも棒テンプを止めることもできないわたしが、消えかけている幼いこぐまの魂を助けることなんてできるはずがないじゃないか。なんという思い上がり。噛み締めた唇から血が滲み、口の中に生暖かい鉄錆の味が広がる。ブラックベリーのジャムじゃない、紛う方なき血の味だ。
「おねえさん」
こぐまの声が平手打ちのようにぴしゃりと耳に届く。
わたしは瞑っていた目を開けた。
砂時計の真横にコインの投入口がある。そして、目を凝らすと切り株の年輪に沿って隙間ができていた。ちょうど、このプリンター用紙を挟むことができるくらいの隙間だ。
試しに白紙をその隙間にあててみた。白紙の下端がぴたりと収まる。わたしは、最後の硬貨を投入口に入れた。カチッと聞き慣れた音がして白紙が切り株の中に吸い込まれて行く。すると、一番外側の年輪が糸に変わった。
焦る気持ちを抑え、その細い糸がもつれたり切れたりしないよう慎重に巻き取っていった。巻き終わると、ちょうど小さな苺のモチーフがひとつ、編み上がる長さがある。
あとは、かぎ針。かぎ針さえあれば、こぐまのためにレースの苺を編みあげることができる。
砂時計の砂は、もうわずか。
「だいじょうぶ。だいじょうぶ」
気持ちを落ち着けかせるために繰り返しながら、わたしは機械時計のこぐまを手に取った。
プリンター用紙が糸になったのなら、必ずこぐまのどこかにその糸を編む手がかりがあるはずだ。管理人さんは道具だと言って、こぐまを渡したのだから。
こぐまを手にのせると小さな痛みが走った。
そうだ!
こぐまの右の前足のかぎ爪が一箇所伸びていたんだ。
わたしは、こぐまを裏返した。この爪に糸が引っかからないだろうか。かぎ針は先端が
試してみると、こぐまのかぎ爪に糸は引っかかってくれた。だけど、とても編みにくい。小さな苺一つでさえ、最後まで編めそうにもないくらいに編みにくい。
夕焼けに染まった原っぱは、真っ赤な苺の実の中にあるようだ。見上げれば、東の空にはすでに夜の闇が訪れている。砂時計の砂は見るのも恐ろしいくらいに、わずかしか残っていない。
編みにくいとか言っている場合じゃない。原っぱが真っ赤な苺の中にあるうちに、なんとしてでもレースの苺を編み上げなければならない。
指で輪の作り目を作り、その輪の中にこぐまといっしょに一段目の細編みを編んでいった。
「こぐまさん、あなたは自分で自分の苺を編むのよ。自分で編んだ苺で、あなたは自分の魂が行きたいところに旅立つのよ」
二段目は一段目の細編みを増やしていく。
三段目も二段めと同じ数を増やす。
四段目から六段目は、そのままの数。
わたしは無心になって、こぐまといっしょに苺を編んでいった。
空の明かりを一筋残し、森は夜の
原っぱには、わずかに苺の実の赤い明かりが残っている。
七段目。全ての目の数を半分に減らしながら編んでいく。そして、最後の段の目に糸を渡して一気に絞る。
レースの苺が編み上がった瞬間、砂時計の最後の一粒が落ち赤い夕焼けも消えた。
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