白い鳥

 違う。わたしは望んでここに来たんじゃない。立て続けの判断ミスと不運と後悔と己への嫌悪感の挙句に、こんなことになってしまったんだ。そもそも仏蘭西菊洋装店の求人募集に釣られたのが間違いだった。それで管理人さんに機械時計のこぐまと白紙と編み図を押し付けられて無理難題を言われて、それから青猫商会のミシェルなんて無駄に美しいだけの最低最悪の男……。


「あっ」

「おねえさん、やっと、わかったみたいだね」

「聖母マリアの苺の編み図と、こぐまさん、あなたの言う苺は関係があるのかしら」


 こぐまは返事をしなかった。それが何よりもの答えだ。


 管理人さんから機械時計のこぐまや白紙といっしょに渡されたアイリッシュクロッシェレースの編み図には「聖母マリアの苺」という名が付けられていた。

 こぐまからマリアさまの苺の話を聞いていたとき、「聖母マリア」に「苺」が結びついたフレーズをどこかで聞いたと思ってはいたんだ。そうか、編み図のタイトルだったんだ。


「聖母マリアの苺を編めば、この子は森から出てマリアさまの元に行けるのかしら」

「この子が行くのは、だよ、おねえさん。それがマリアさまのところかどうかは、ぼくにはわからない。ぼくはこの子の魂じゃないんだから」


 あの苺なら編み図がなくても編める。目をつぶっていたって編める。手が覚えているんだ。だけど、糸もかぎ針もここにはない。なにもかも、青猫商会のトートバッグの中だ。

 こぐまが、わたしを急かす。


「おねえさん、早くしないと砂時計の砂が落ち切って、この子の魂が消えちゃうよ」

「わかってる」

「わかってないよ。何もかもが間に合わなくなるよ」

「わかっているったら」 


 空は赤く染まり、森も夕焼けに包まれている。あと十五分も経たないうちに砂時計の砂は落ち、日は暮れ切ってしまうだろう。


 どうしたらいい。どうすればいい。

 為す術もなく手をこまねいて、時間の砂が落ちきるのを見ているしかないのか。たとえ、この森から出ることができてもあの階段を十分以内に—— いや、引き返す時間を考えればその半分以下だ——で降りて給湯室の小部屋に行けるはずがない。行けたとしても青猫商会の扉は開かない。青年が開けてくれるとは思えない。


 容赦もなく時間が落ちていく砂時計に、忌々しい青年の顔が重なる。

 今ここにあるのは、乳飲み猫だったサリをくるんだハンドタオルと砂時計だけだ。

 ハンドタオルがあるのはわかる。わたしがずっと握り締めていたからだ。だけど、なぜ作業机の上にあった砂時計がここにあるのだろう。もしかしたら、他にも何か青猫商会にあったものがここに来ているのかもしれない。  


 それと、白い鳥……原っぱに道案内してくれたあの鳥はどこにいるのか。砂時計の後ろに舞い降りてから、動く音も飛び立つ気配もしなかった。


 わたしは鳥が着地した場所を見に行った。

 そこには白い鳥の姿はなく、代わりに白い紙が落ちていた。それも、管理人さんから渡されたあの白紙だ。間違いない。トートバッグの中で付いたシワがある。


 管理人さんは、プリンターから吐き出されたこの白紙と機械時計のこぐまを使って、レースの苺を編むようにと無茶苦茶なことを言ったんだ。A4のプリンター用紙がここにあるのなら、機械時計のこぐまも原っぱのどこかにあるのかもしれない。

 機械時計のこぐまと白紙が揃ったところで、どうしたらレースの苺が編めるのかわかるはずもなかったが、今は考えるのは後だ。白紙がここにある以上、是が非でもこぐまを見付けなくてはならない。


 わたしは原っぱを見回した。でも、それらしきものは見当たらない。手のひらに乗る大きさだから、野苺の茂みに紛れ込んでいるのかもしれない。いくら小さな原っぱとはいえ、野苺の下を全部探すのは時間的に無理というものだ。ああ、どうしよう。機械時計以外にこの原っぱにいるこぐまは二頭。いちごおとしにあったこぐまと、魂がもうすぐ消えようとしている幼いこぐま……。

 わたしは白紙を持って幼いこぐまのもとに行った。うずくまっている姿をよく見れば、それはこぐまではなかった。チョコレート色のフェイクファーが、ふわりと置いてあるだけだ。それがこぐまが眠っているように見えたんだ。


 ざわざわと予感がする。わたしは、フェイクファーを取り除けた。



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