フランス菊の花の中

 木苺の森のこぐまは立ち去りもせず、がレースを編み終わるのを見ていた。

 森はすっかり夜の中だ。木々の木末こぬれの間から、不知夜月いざよいづきがのぞいている。月明かりに照らされた原っぱは、仄かに明るい。


 機械時計のこぐまは、編み上がった苺と砂時計と共に消えてしまった。チョコレート色のフェイクファーも、わたしのハンドタオルもいっしょに消えた。

 もう何もできない。何もできなかったのかもしれない。

 でも、わたしの指先には、かぎ爪がつけた無数の傷が残っていた。今となってはこの傷が証であることを、あの子の魂が行きたいところに行けたという証あることを祈るしかない。


 

「本当のことを言うとね」唐突に木苺の森のこぐまが言った。「ぼくをここに置き去りにしたのは、おかあさんじゃないんだ」  


「おかあさんじゃなかったら、誰なの?」


「誰だろうね」 

 こぐまは笑ったけれど、翠玉エメラルド色の瞳は今にも泣き出しそうだった。

「ぼく、ほんとに行くね」


「引き止めちゃって、ごめんなさい」

「いいよ。気にしないで」

「いろいろ教えてくれてありがとう」

「おねえさんも、いつまでも原っぱにいないで早く帰ったほうがいいよ」

「そうね」


 でも、どうやったら帰れるのだろう。森の入り口まで戻って、キツツキのうつつつきにドアを開けてと頼んでみようか。


「さよなら、おねえさん」

「さよなら、こぐまさん。あなたも独り立ちして、立派なおとなのくまになってね」


 わたしが何気なく言った別れの言葉に、こぐまの表情が一変した。


「ぼくは、おとなになんてなれない。ぼくは、ずっとこのままなんだ」

「ずっと、このままのはずはないわ。おとなになるために、こぐまさんはいちごおとしにあったんでしょう」

「違う。ぼくをこのままにしておくために、ぼくはここに置き去りにされたんだ」


 あまりの剣幕に返す言葉を失った。こぐまは、わたしが彼を置き去りにした張本人であるかのように睨みつけた。瞳の中の燃えたぎる憎悪に、身を焼かれそうだ。この瞳は見たことがある。誰かと同じ瞳だ。わたしがその誰かを思い出す前に、こぐまは続けた。


「ぼくには魂がない。あの子と違って、ぼくには消えちゃうような魂がないんだ。だから、この森も消えない。ぼくは、ずっとここにいるしかないんだ。行きたいところがあっても、ぼくはどこにも行くことができない。魂があったら、ぼくだって、どこかに行きたい。自由になりたい。こんなところに、こんなふうに閉じ込められていたくない。こんなところにいるくらいなら、消えちゃった方がずっといい。なのに、ぼくは消えることさえできないんだ。ぼくがこんなにされたのも、みんな、おねえさんたちのせいだ! が、ぼくを裏切ったからだ!」


 そう吐き捨てると、こぐまは森の奥に走って行ってしまった。

 わたしはこぐまが掻き分けていった木苺の茂みを呆然と見ているしかなかった。

 どういう意味なのだろう。魂がないなんて。すでに消えてしまったということか。いや、こぐまは「ぼくには消えちゃうような魂がない」と言ったのだ。


 風が出てきた。原っぱの周りで木々の葉がざわめいている。

 どちらのこぐまのことも気掛かりだったが、いつまでもここにいるわけにもいかない。取り敢えず、森の入り口に戻ろうと立ち上がった。


 突然、こぐまが駆けていった方角から叫び声が聞こえてきた。こぐまの声だ。何があったのか。

 野苺の原っぱを出て、わたしは森の奥に踏み入った。木々の間から零れる月明かりがこぐまの通ったあとを照らし、その先で血を吐くような絶叫が続いている。

 木立ちは鬱蒼として思うようには進めなかったが、どうにか木苺の大きな茂みを抜けると急に視界が開けた。



 中天に浮かぶ月の下に、水をたたえた湖が静かに広がっている。湖畔にはフランス菊が咲き乱れ、花飾りとなって水辺を縁取っていた。

 絶叫は続いていたがこぐまの姿はどこにもなく、その代わり花の中に少年が立っていた。叫び声をあげているのは、全裸のその少年だった。彼はまるで湖にたたかいを挑むかのように叫んでいた。しかし湖は少年を相手にする気など更々ないらしく、さざなみひとつ立てていない。


 少年が花の中から振り返った。その顔は硝子の棺で眠るラファエルという名の美少年のものだった。



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