不知夜月のみなも
憎しみと悲しみに満ちた
「あなたが、こぐまさんだったの?」わたしは言わずもがなことを尋ねた。
「あの女は、ぼくを裏切った。ぼくの苺は食べなかったけれど、彼女の苺をぼく以外のやつに食べさせた」
「あの女って…… 誰のこと? おかあさんのこと? おかあさんは、あなたを置き去りにはしなかったのでしょう?」
少年は答えず、憎悪の炎が燃え上がる目でわたしを一瞥すると身を翻し、散る花のように湖に飛び込んだ。そして、
彼の立てる水音は湖面の静寂を破り、絶望の波が
少年がいた場所のフランス菊は、引き千切られ踏みにじられていた。その上をひらひらと紋黄蝶が飛んでいる。硝子の棺で眠っていたとき、彼の枕元にあったカタバミの花が紋黄蝶になったのか。あるいは、青猫商会で天使長が見ていた紋黄蝶が舞っているのか。
硝子の棺は、白雪姫の棺。死の直前で時間が止まっている棺だ。王子がキスをして白雪姫が息を吹き返すまで、喉に詰まった林檎はそのままで、決して彼女を死に至らしめない。
でも、王子がやってこなかったなら?
白雪姫は硝子の棺の中で、喉に林檎を詰まらせたまま永遠に眠り続けることになる。
彼女は目覚めることも、最後の眠りに引き渡されることもなく、いつまでも眠り続ける。
あの少年の元には、誰かが訪れることがあるのだろうか。それとも彼を眠りから目覚めさせるものは、誰もいないのだろうか。
こぐまは「まだ死んではいない」と言った。そして「ぼくには、消えちゃうような魂がない」とも言った。
魂がないのなら、彼の砂時計の中には時間の砂ではなく、彼自身が封じ込まれているのかもしれない。仏蘭西菊洋装店の奥にある彼の棺は、時間のない硝子の砂時計なのだ。生からも死からも見放され、彼は宙ぶらりんのままでいつまでも存在し続けなければならない。
機械時計のこぐまが魂の行くべき場所に駆けて行っても、魂のない木苺の森のこぐまは、絶望にかられて硝子の湖面を泳ぐしかない。いくら泳いでも、湖のある森からも、硝子の棺からも逃れられないのに。
彼が泣いていたのは、親に捨てられ死んだ魂を哀れんでのことではなかったんだ。我が身を
それとも、悔しさのために泣いていたのか。彼を裏切った者たちと魂のある全てのものたちへの遺恨や嫉妬のせいだったのか……。
彼を裏切ったのは、彼以外の男に苺を与えた
少年が
紋黄蝶がわたしを絡め取るように飛んでいる。わたしは自分の意思に反して紋黄蝶と共に湖に入って行かなければならなかった。わたしは泳げない。だから、とても怖い。それでも、歩みを止めることはできなかった。森は初夏のはずなのに、湖の水は凍り付くように冷たい。
フランス菊の花の中で三羽の兎が品定めをするように、湖に入って行くわたしを見ている。
腰まで水に浸かったとき足元が崩れ落ち、わたしはどこまでも深く湖の中に落ちて行った。
目の前を白い魚が通り過ぎていく。
その魚に両手を伸ばし、
逃げたい。ここから逃げたい。全てから。何もかもから。
だけど、わたしの指がつかんだのは魚ではなかった。ミシェルという名の少年が書いた散文詩—— フーディのポケットにいつの間にか入っていたあの紙片だった。
木苺の森でサリのタオルは消えたのに、これは消えていなかったのだ。
紙片は指の間で水に
蝶たちはわたしを取り囲み、湖の奥深く螺旋を描いて行く。忘れていた頭痛が激しさを増して蘇ってきた。
月光も届かない螺旋の先で、わたしを抱きとめようとするものがいる。
彼だ。
彼の手が届くと、わたしは白い蛇に化身した。
二匹の蛇は、くるくると絡み合う。二つになった一つのものが、また一つに戻ろうとするように。しかし、わたしは拒絶する。一つになることを拒絶する。もし彼がわたしをこのまま消し去ってくれるのなら、それには甘んじよう。けれど、一つになるのはいやだ。絶対にいやだ。
だけど、彼の腕から逃れることはできない。
いやだ、いやだ、いやだ—— わたしの身は砕け散り、瞬く間に気泡になった。
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