木苺の森

二つの扉の間 2

 コツコツ コツコツ

 コツコツ コツコツ



 絶え間なく続く音の中で、泣き疲れ思いあぐねたわたしの意識がふっと遠のいていく……。

 でも、それもほんの束の間。

 すぐに音は、仏蘭西菊と青猫に挟まれた小部屋に、わたしを呼び戻す。

 今、何か見ていた。確かに見ていた。


 何を……?

 

 ああ、そうだ。誰かの悲しみだ。花咲き乱れる古い館で育つ少年の悲しみだ。暗闇の底にうずくまる言い知れぬ悲しみだ………… だけど、それが何なのか、わからない。わたしに、わかるはずもない。



 コツコツ コツコツ

 コツコツ コツコツ



 そんなことより、上り階段から聞こえてくるこの音だ。急き立てるように響くこの音だ。

 階段まで行ってみると、音は上の階から聞こえてくる。階段脇の突き当たりに、この部屋では三つ目の扉があった。わたしはノブに手を伸ばした。鍵は掛かっていない。そっと開けると、洗面所だった。奥にもドアがある。トイレだろう。窓があれば、外に出ることができるかもしれない。

 ドアを開けると、意外に広くてカーテン付きのシャワーまで付いていた。でも窓はなく、小さな換気扇だけだ。がっかりしてドアを閉め、洗面所に戻った。仏蘭西菊洋装店には鏡がなかったけれど、洗面台の上には四角い鏡が取り付けてある。

 青年がわたしの口の端にジャムが付いていると言ったことを思い出して、見たくもない鏡を見た。



 鏡の中から、青年がわたしを見詰めている。



 一瞬、ぎょっとした。しかし、ただの錯覚にすぎなかった。写っているのは、見窄みすぼらしいわたし。わたしが見詰め返しているだけだった。

 ブラックベリーのジャムは手でこすっただけでは、取りきれていなかった。髪はボサボサ、泣き腫らした目は真っ赤だし、化粧気もない。青年の完璧すぎる美しい容姿をさっきまで見ていたせいで自分の醜さを余計に思い知らされた。

 水を出してバシャバシャ顔を洗った。見窄らしさや惨めさが洗い流せるわけでもなかったが、ジャムだけは洗い流せた。ハンドタオルで顔を拭いていると、とんでもない妄想が浮かんできた。

 あの青年をどこかで見たような気がするのは、わたしと似ているからなんだ。


 まさか。


 妄想にも、ほどがある。あんなに美しい青年と、こんなに醜いわたしのどこが似ているというのだ。

 青年が親しく接してくれたから、思い上がっているんだ。どれだけ、思い上がって勘違いすれば気がすむというんだ。思い上がれば上がるほど、落ちたときの痛手は大きい。

 酸っぱい惨めさが、胸の奥から耐えきれないほど大量に上がってくる。

 もう鏡になんか目もくれず、わたしは洗面所を出た。

 ここに洗面所があるということは、オーナーの少女たちや管理人さんも使うのだろうか。そんなこと、わかるはずもない。他の場所にも、サニタリールームがあるのかもしれないのだ。


 コツコツという音は、相変わらず階段の上で続いている。

 この小部屋から出られたとしても、わたしに行くあてはない。ここで野垂れ死ぬか、路上で野垂れ死ぬのかの違いだけだ。

 それなら、階段を上がってみよう。上の階に行けば、もしかしたら出口は見付かるかもしれないし、音がしている以上、人がいるかもしれない。


 階段を上り始めると「戻ってくるんだ」という青年の声が聞こえた—— 気がした。小部屋で人が動く気配もする。


 わたしは階段を駆け降りた。

 青年が小部屋にネクタルの硝子瓶を取りに来ていた。


「ミシェルさん!」


 でも彼は完全無視で青猫商会に戻ると、扉を閉めてしまった。わたしは必死で扉を叩いた。


「開けてください! ミシェルさん、ミックさん! 開けてください! バッグが置きっぱなしなんです! 中に大事なものが入っているんです! 仏蘭西菊洋装店の管理人さんから預かったものが入っているんです! 開けてください! ミックさん!」


 扉をなんとかして開けようとした。だけど、やっぱり無駄だった。

 青年からは何一つ返答がない。

 無性に向かっ腹が立ってきて、さっきより強く扉を蹴っ飛ばした。


「戻って来いって言ったから、戻ったんじゃないの! 開けなさいよ、ミック!」 


 その瞬間、扉が消え、すぐ目の前に青年が立っていた。

 わたしの足が思いっきり当たったのは、扉ではなく青年だった。でも青年は構わずわたしを強く抱き締め、わたしの髪に顔を埋めて何か囁いた。


 しかし、それもまた一瞬の幻覚にすぎなかった。わたしの前にあるのは、頑丈な扉だけだ。

 扉を蹴った足がジンジンして、すぐには動けなかった。苛立ちのあまり頭がおかしくなって、見たくもない幻覚を見てしまったのだろうか。

 青猫商会は、相変わらず静まり返っている。足を引き摺りながら、階段に戻った。


 もう、わたしは階段を上がって行くしかないんだ。



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