旅の薬

 世情がすさむ前は、ぼくとラファエルは馬車や鉄道や船に乗せられて、アンジュといっしょに旅に出ることがあった。

 将来のために人間の社会に触れて理解し、こどものうちから慣れておく必要があるからだ。


 旅のお付きの中には教師たちもいた。アンジュが仕事に行っている間、ぼくたちに付き添って人の世の見学をさせるためにだ。

 教師は人間たちの前に居ても相変わらずの無表情で、必要なこと以外何も話さなかった。それでも、人間たちはぼくたちの素性に少しの疑問も抱かなかった。人間たちの興味は、アンジュがばらまく貨幣やぼくら一行の贅沢な身なりや高価な持ち物にしかなかったんだ。



 ラファエルは、美しい少年だ。

 それは、ぼくも同じ。

 人間たちはぼくらを一目見るなり、その美しさに目を見張り息を呑んだ。

 ラファエルは気にも留めていなかったけれど、ぼくはその感嘆の眼差しが疎ましくてならなかった。

 人間たちの視線に晒され続けていると、地下室でアンジュがぼくを見詰める目が思い出されて忌まわしくてならない。「甘く美しいミシェル」と唇を這わせながら囁くアンジュの声までが蘇ってくる。

 ぼくは、それが大嫌いだ。

 人間だろうがなんだろうが、ぼくを汚れた目で見ないでくれと叫びたかった。

 人間たちの羨望と欲望を思い通りに利用できるようになるのはずっと先のことで、ぼくがおとなの姿になってからのことだ。

 だから、まだこどものぼくは旅の間、ラファエルや教師たちの陰で顔を伏せ人間たちの視線から少しでも隠れるしかすべがなかった。



 旅の間は、猫のアルとも離れ離れになる。

 ぼくはそれが不満で、一度、出発間際にアルも連れて行くと駄々を捏ねたことがあった。だけどアンジュがそんな我が儘を許してくれるはずもなく、ぼくはこっ酷く平手打ちを食らっただけだった。

 そのあと馬車の中でアンジュはいつもに増して不機嫌で、嗚咽を堪えるぼくの手をラファエルはずっと握っていてくれた。

 


 宿では、旅の薬を飲まされた。

 旅の薬は、ぼくとラファエルのためというより、周囲の人間たちのためだ。

 いつもの水薬では夢の発作が抑えきれないこともよくあったから、この薬によって夢自体をいったん封じてしまうのだ。

 万一人間たちの前で発作が起きれば、ぼくたちの正体がばれてしまう。正体を知った人間たちは狂い死にする。それだけじゃない。その土地全部が呪われて一夜のうちに滅んでしまうのだ。昔話や神話によくあるだろう、流離さすらう神によって一夜にして消えた集落や土地の話が。

 ぼくらは教師たちから、先ず第一に配慮すべきはこの世界にある全ての魂だと厳しく教え込まれていた。

 旅の薬によってぼくらの苦しみは増したけれど、黙って耐えるしかなかったんだ。



 旅の間に封じられおりのように溜まった夢は、銀葉ミモザの館に戻ると堰を切ってぼくらの中に溢れ出した。

 それほどアンジュが忙しくないころは、旅の間にはできなかった翼の芽を摘む鞭打ち《オプス》は、何日か経ってぼくらの症状がおさまってから行われた。

 でも、だんだんとアンジュが多忙になってきて、すぐにまた領地周りに出掛けるようになると、鞭打ちが何よりも先になった。

 身体の中で溢れかえる夢のおりで苦しみ踠くぼくらは、いつもの倍の鎖で雁字搦めにされた。ぼくらが動いて、アンジュの鞭の先が外れないようにだ。それでも外れることの方が多くて、その後三日は腫れ上がった背中のせいで、うつ伏せでしか寝られなかった。

 アンジュから受ける傷は普段の怪我よりずっと治りが遅かったんだ。



 だから、ぼくもラファエルも旅に出るのは憂鬱で嫌いだった。旅が長くなればなるほど、ぼくたちはふさぎこんでいった。

 それに、旅の間はオーレ・ルゲイエに変わって、アンジュがぼくらの瞼に眠りのミルクを落とすんだ。

 アンジュが乱暴にさすミルクは、いつだってまぶたの上で溢れ返り、目にしみて痛くて仕方なかった。オーレ・ルゲイエのさすミルクは、あんなに甘かったのに。



 アンジュが忙しくなって旅に連れていかれることもなくなると、ぼくたちは心底安堵した。でも、これはアンジュの前ではもちろん、教師たちの前でも決して表に出してはいけないことだ。

 アンジュが多忙ということは、人の世に災いが多いということだから。ぼくらが自分のことより先に、配慮しなければならない魂たちが滅びていくということだから。

 それがわかっていても、ぼくらは旅に出ずにすむことがうれしかった。



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