アルカンジュ

 ラファエルは親友には違いなかったけれど、彼はやっぱりアンジュの弟だ。心のどこかで線引きをしてしまう。


 本当に心を許せるのは、猫のアルだけだ。アルは、ぼくがミモザの館に連れてこられた日から、ずっといっしょだ。

 赤ん坊のころ館の地下で眠らされていた間も、ぼくを守るようにアルは部屋の扉の前に座っていたそうだ。

 アルは、おじいさまの神殿からきた猫ではない。ぼくが館に着くと同時に、どこからともなく現れたとアンジュが言っていた。それが事実なのかどうかはわからないけれど。


 

 旅に出ずにすむようになると、アルと毎日いっしょにいられることが、うれしくてたまらなかった。

 たまに姿が見えなくなると、ぼくは何もかも放り出して探しに行った。

 だいたいは、庭の噴水のところか、森の奥の湖にいた。猫は水が苦手だというけれど、アルは揺れる水面みなもを見るのが好きだった。

 霧雨が降る湖を三羽の兎たちと見ていることさえあったんだ。



 それだから、アルの瞳は、湖と同じ色をしているのかもしれない。

 ぼくは息さえできないくらいつらくなると、アルの瞳を覗き込んだ。

 瞳の湖に映るぼくは、やがて、その中に沈んで行った。

 湖水に揺蕩たゆとうぼくの周りから、禍々しいこの世界が消え去って行く。

 そして、ぼくがぼくであることも消えて行き、苦しみも怒りも憤りも、どうしようもない遣る瀬無さもみんな無になって消えて行った。

 でも瞬きを一つでもすれば、災厄に満ちた世界は瞬時に蘇り、ぼくはまたこの現実に絡め取られてしまうのだ。



 翼の芽を摘むときもアルはぼくが赤ん坊だったときと同じように、地下室の扉の前で待っていた。

 ラファエルといっしょのときは翼の芽を積み終われば、アンジュはすぐにぼくらを解放したから、扉の前のアルと階段を上がり、ラファエルと一言二言交わしてから自室に戻ることができた。


 でも、ぼくひとりのときは夜明けまで、地下室の扉は開かなかった。そして、ぼくはだいたい気を失っていて、朝の光の中で意識が戻ったときには自分の部屋の寝台にいた。

 アルはいつも枕元にいてくれたから、不穏な長い夜の後にぼくが最初に見るのはアルの澄み渡った瞳だった。それがどれだけぼくの救いと慰めになっていたことだろう。



 悔しさで涙が溢れることはあっても、ぼくはアンジュの前で泣き叫び、ましてや許しを乞うことは決してなかった。

 穢れた夜にあっても、ぼくはおじいさまヘルメス・トリスメギストスの血から作られた孫であるという矜持をぎりぎり保っていられたのは、扉の前で待つアルカンジュのおかげだったんだ。

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