水と火

 自分のグラスを持って、彼は上着の掛けてある椅子に座った。

 そして写真立ての向きが変わっていることに気が付いて、わたしを見た。彼が何か言うより先に、わたしは写真立てを勝手に触ったことを謝った。

 青年は写真立ての向きを自分の方に動かし、月光の髪の少年を指先でなぞった。


「ぼくといっしょに写っているのは、親友。ぼくらは、いっしょに育てられたんだ」


 それならやはり巻き毛の少年は青年本人なんだ。

 だけど、どうして十九世紀風の衣装を着て、写真を古めかしく加工したのだろう。商業利用のための写真? これだけ美しい少年たちならモデルには引っ張りだこのはずだ。でも、この写真はセピア色に画像調整したものではなく、実際に百年以上の時間を経た気がしてならない。


「彼の名はラファエル。ぼくと彼の呼び名は、彼の兄のアンジュが付けた」青年は不快気に顔を歪めた。「きみも知っている通り、アンジュは、ぼくの育ての親。皮肉な呼び名だけどさ」


 彼は月光の髪の少年に指先を留めたまま、当たり前のように言った。


 だったら硝子の棺のラファエルは、この写真に似せて作られた精巧なヒューマノイドなのかもしれない。写真の少年がラファエルなら、今は青年と同じ年頃のはずだもの。良かった。薬漬けにされ眠らされている本物の少年ではなくて。

 管理人さんは、機械時計のこぐまも「この子」と言っていたし、あれだけ精巧な機械人形ヒューマノイドなら、本物の少年扱いもするだろう。


 それにしても、ミシェルとラファエルなんて天使の名前じゃないか。実際、天使と見紛うばかりに美しい彼等なのだけれど。それに、わたしの膝の上の猫。この猫も天使長という名前だ。わたしのサリも天使の名前。わたしだけが天使じゃない。天使たちのいる場所に道端の雑草が紛れ込んでいる。そうか、だから、こんなにも惨めで見窄みすぼららしいんだ。


「きみだって、ぼくの呼び名と同じ名前じゃないか」

「えっ?」

「ぼくには本名がないんだ。ラファエルにはあっても。ぼくにはアンジュの付けた呼び名しかない」

「……」

「だけど、ぼくの呼び名が、きみの名と同じだったのはうれしいよ」


 何を言っているのだろう。言っていることが理解できない。そもそもわたしはミシェルなんて名前じゃない。もちろんミックでもない。漢字二文字の名だ。第一、リコにもスモモコにも管理人さんにも誰にも名乗っていないんだ。もちろん青年にもだ。彼がわたしの名前を知るはずがない。


 黒橡くろつるばみ色の瞳が、まっすぐにわたしを見詰めている。一点の光さえ届かない闇の中に住まう瞳……。


 出し抜けに、彼を抱きしめ暗闇から守りたいという衝動に駆られた。それは驚くほど強い衝動だった。こぐまの機械時計を動かしたいというコンビニでの衝動と同じくらい強い衝動だった。でも、今の方がわたしの動揺は激しい。男性に対してこんな気持ちになったことは一度もないのだもの。




 わたしの男性恐怖症は根が深い。

 物心ついたときには父親から躾という名の暴力を頻繁に受けていた。今でも頭や頰に、父の拳がまざまざと蘇ってくる。母親は普段は過干渉なくせに、父が激昂しているときには見て見ぬ振りだった。きっと、父の怒りが彼女に飛び火してくるのを恐れていたのだろう。だから両親が死んだときは悲しみより、やっと自由になれたという解放感の方が大きかった。

 小中学生のころはクラスの男子から、親の付けた水火みかという名前のせいでいじめられた。水と火。まるで「上は洪水、下は大火事」のなぞなぞだ。今時、このなぞなぞみたいに下から薪で炊くようなお風呂なんて滅多にない。だけど小学生というものは、からかいやいじめに使えそうなものは見付けてくるものだ。わたしは「お風呂」だの「温泉マーク」だのとからかわれ、中学になると「公衆」と囃し立てられるようになった。そして、成人してからは無言の付きまといと根も葉もない噂と不特定多数のストーカーたちだ。


 だからといって、同性に恋愛感情や性的欲求を持つわけでもない。しいてラベルをつけるとしたら、アセクシャルの一種だ。異性にも同性にも恋愛感情を抱かない。わたしの場合は抱けないのだ。セックスは人間にとって生殖行為であるとともに、他者との親密なコミニュケーションなのだそうだ。だけど、そんな怖いこと、わたしにできるわけがない。生殖にしたって、わたしみたいなダメ人間が増えるだけだし、生まれてくる子たちに申し訳ない。これまで幾度生まれてこなければ良かったと、親を恨んだことか。惨めなのは、わたしで打ち止めだ。ずっと、そう思い続けてきた。

 それなのにたった今、会ったばかりの青年への理解できない強い思慕。わたしは狼狽うろたえずにはいられなかった。

 大天使にも見紛みまごうばかりにまばゆく美しい青年が、古くからの知己ちきのように親しげに接してくれるからなのか。それなら、なんて勘違いで身の程知らずで浅ましいんだ。




 自分への嫌悪感から逃れたくて、彼から顔をそむけると、青年は屈託のない声で言った。


「お茶が冷めないうちに遠慮せずに召し上がれ。ぼくが入れたお茶には変なものは入ってないから安心して。仏蘭西菊の粗品ケーキには何が入ってるかは知らないけどね」


 どうして、わざわざそんなことを言うのだろう。わたしは返事をせず、ホットティーのグラスも手に取らずにいた。


「疑い深いなあ。そんなに心配なら、天使長に毒味でもさせたらいいよ」

「にゃ」


 わたしの膝の上で天使長が体を起こし、作業机に前足をかけた。青年は灰色猫をいましめるように人差し指を振った。


「いいか、天使長。猫はケーキやお茶を食べたり飲んだりしちゃだめなんだぞ。猫には毒だからな。編み手さんにいくら無理強いされても彼女のお茶やケーキには、絶対に口をつけちゃダメだ」


 天使長が「にゃあ」と鳴いて前足を下ろす。


「天使長は編み手さんと違ってよくわかっている」

 青年が笑った。


 天使ふたりして揶揄からかうのはいい加減にしてほしい。さすがにムッとして顔を上げたが、青年と目が合いそうになって慌ててまた顔を伏せた。

 青年の視線が追い掛けて来る。彼はわたしと目を合わせたがっている。いやだ。もうこれ以上、彼のせいで身の内に吹き荒れる暴風雨には曝されたくはない。


 やはり、天使長が膝に乗る前にさっさとここから逃げ出しておくべきだった。後悔先に立たず。いつだってこうだ。ボヤボヤしていて逃げ遅れる。今日なんてパンの移動販売車、仏蘭西菊洋装店、青猫商会と三連続だ。


 青年の視線が執拗に絡み付いてくる。わたしなんか見なくたっていい。どうせ見るんなら、鏡で自分の姿でも見ていたらいいんだ。よっぽど、目の保養になる。

 そう思ってから、ふと気が付いた。仏蘭西菊洋装店には鏡がなかった。洋装店なら、姿見は必須のはずだ。それなのに、姿見どころか手鏡一つ置いていなかった。だから、口の端のジャムにも気付かず、フーディのシミも忘れていたんだ。


 彼の視線のあまりの執拗さに堪りかねて、顔を上げた。彼の瞳がもう逃がさないとでもいうように、わたしの瞳を捕らえる。わたしの苛々は頂点に達した。


「何を見ているんですか。まだ、わたしの顔にブラックベリーのジャムが付いていますか」


 そう言ってから、驚いた。こんなにきつい声を男性にぶつけたことはなかった。そして、もっと驚いたのは、彼が叱られた子どものようにしゅんとして、わたしから視線を逸らしたことだ。


 彼はまた唐突に会話をつなげた。「エリーは、今はあんなにいかめしいけれど、少女のころは素直だったんだ」


「エリー?」


「管理人のばあさんさ。若いころは素直で可愛かった」それから取って付けたように言った。「きみみたいに」


 わたしと大して歳が変わらない青年が、管理人さんの少女のころや若いころを知っているはずがないじゃないか。そもそも、管理人さんに失礼だ。管理人さんはお歳を召していても、わたしよりしっかりしていて比べようもないくらいお綺麗だ。そんなにわたしを勘違いさせて舞い上がらせたいのか。そのあと十中八九、身の程知らずと突き落とすに決まっているんだ。さっき、天使長に毒味させたらいいと言った直後に、猫はケーキやお茶を飲んだらだめだといさめたように。


揶揄からかうのは、やめてください。わたしなんかを揶揄って、何がおもしろいんですか」

「揶揄ってなんか、いないよ」


 彼の黒橡くろつるばみの瞳の底に何があるのかわからない。ただ鋭い何かだとしかわからない。炎のような、氷のような、触れたりすれば、身をえぐられ引き裂かれるような、得体の知れない何かだとしか。


 わたしは黙り込み、二人の間にしばらく沈黙が続いた。




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