翼の芽

 翼の芽を摘む鞭打ちオプスは、館の地下の一室で日付が変わる時刻を挟んで行われる。



 アンジュがそれほど多忙ではなかったころは、朝食のときに「ラフ」「ミック」ではなく、「ラファエル」「ミシェル」と呼べば、その夜がぼくたちの翼の芽を摘む日になった。

 アンジュが「ミシェル、おはよう」とぼくにだけ言った朝は、取り分け憂鬱だった。ぼく一人だけが、地下室に呼ばれたからだ。ラファエルがいない夜は鞭打ちオプスだけでは終わらない。真夜中から明け方まで地下室でアンジュがぼくにすることが一日中頭から離れなくなる。


 ふさぎ込むぼくに気を使ってか、ラファエルは目を合わせることさえしない。

 鞭打ちの日は夕食抜きだったけれど、ぼくは朝食も昼食もほとんど食べなかった。食べる気がおきなかった。

 授業も当然、上の空だ。教師もわきまえていて、ぼくが質問に答えなくても、与えた問題が解けなくても、机に突っ伏したままでも、何の注意も指導もせずに淡々とその日の講義を進めていった。



 時間が来ると、独りきりで地下に続く暗い階段を降りて行った。

 地下室の分厚い扉を開けると、アンジュは煙草に火をつけた。

 蝋燭が燃える匂いと金属と革の匂いに、煙草の匂いが加わる。さらにこの後、ぼくの血の匂いも加わることになるんだ。


「服を脱げ、ミシェル」


 もう何千回と聞いた言葉に、ぼくはのろのろと服を脱ぐ。

 アンジュは銜え煙草で手枷と鎖でぼくの身体を十字の形に固定する。体が動いて、翼の芽から鞭が外れないためにだ。


 煙草が石の床に投げ捨てられ、鞭の先がぼくの背中をすっと降りていく。

 最初の鞭が振り下ろされる。

 アンジュの鞭が背中に振り下ろされるたびに風がおき、ロウソクの炎が揺れて、ぼくの影も大きく仰け反る。


 翼の芽を積み終わってもラファエルがいなければ、ぼくの体は鎖で固定されたままだ。

 革手袋を外すとアンジュは、ぼくに猿轡さるぐつわをかませる。悲鳴や嗚咽が誰かの耳に届くからじゃない。この古い館では、アンジュのすることを咎めるものはいない。ただ、アンジュが、猿轡のために屈辱に歪むぼくの顔を見たいだけなんだ。

 いくら、こどもだといったって、ぼくには誇り高きおじいさまの血が流れている。身分違いのアンジュなんかに、辱めを受ける謂れなどないんだ。

 だけど、ぼくの背負う宿命の前では、何もかもが無力だ。だから、定めの鞭を持つアンジュの前では、ぼくはどんな屈辱でも受け入れなければならない。


 おじいさまだって、ぼくを助けてはくれない。だっておじいさまが、ぼくをアンジュにくれてやったんだから。

 人間たちは、タナトス《死神》は冷酷無情だという。

 だけれど、おじいさまの方がはるかに無慈悲で冷酷非道だ。


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