鉢植えの形
猫を抱きながら、わたしは天使長という名前に完全に惑わされてしまった。天使長なら生きた猫だけでなく、死んだ猫にだって家に帰るようにしてくれるかもしれない。サリが戻ってきてくれるのなら、藁にだって、見知らぬ男の猫にだって
わたしは天使長を抱いて、ふらふらと青猫商会に足を踏み入れてしまった。
入ってすぐの部屋には、ありきたりな応接セットとキャビネット。背中合わせの仏蘭西菊洋装店とは違って、いたって普通の応接室だった。ただ、普通の雰囲気ではないものもある。大きな
天使長がわたしの腕からソファーに飛び移る。
青年が玄関ドアを閉めた。わたしはビクッとなって、ドアの方に振り返った。
「鍵や
青年はノブの下の閂をわたしに見せた。
「だいじょうぶ。きみを襲ったりもしないから」
それはそうだろう。青年はこんなにも美しく、わたしはこんなにも薄汚れて醜い。
「今すぐにはね」
彼はウインクをした。
「わたし、やっぱり帰ります」
でも青年はドアの前に立ちはだかり、外に出してはくれなかった。
「冗談だよ、冗談」
青年が笑う。
ああ、やっぱりこの笑顔には見覚えがある。記憶の一番深いところにある笑顔だ。この笑顔にいつどこで出会ったのか思い出そうとしても、思い出せない。でも確かに記憶の底に刻まれていて、心を激しく揺さぶるんだ。それと、幽かに香る彼の匂い。彼が動くたびに、ふわっと香るこの匂い。生まれるずっとずっと以前に包まれていた懐かしい香り。
「奥が仕事部屋なんだ。そこで座って待っててよ。お茶、入れるからさ」
「ここでいいです」
何かあったら逃げ出せるように天使長の横に座ろうとした。ここなら窓があるし、助けを求める声が路地にまで届くだろう。もっとも、悲鳴を上げることができたらだけど。仏蘭西菊洋装店で見えない誰かに後ろから二度襲われかけたときも、身が
座りかけたソファーから飛び退き玄関ドアに戻ろうとしたら、即座に腕を掴まれた。やっぱりこの感触は彼だ。
「触らないでください!」
彼の手を振り解いてから、ものすごく驚いた。普段なら腕を掴まれた途端に固まって、絶対に振り解くなんてできないのに。
彼は真顔でわたしを見た。「そんなに怖い顔しなくても。ぼくら、身内なんだから」
初対面でも仏蘭西菊洋装店のアルバイトは、身内ということになるのだろうか。そんなの困る。迷惑なだけだ。
天使長が二人の足の間をするりと抜けて、仕事部屋に行った。青年がわたしの背を押そうとする。それを避けようとしたら、中に入ってしまった。
その部屋は全くの異空間だった。奥に更に扉がある。
壁には何に使うのか見当もつかない古めかしい器具や薬品がずらりと並んでいた。まるで昔の銅版画にある錬金術の作業場だ。それでいてSF映画でしか見ないような機器がそこかしこに設置されて、宙には数字の光が流れ、文字や図形が
過去と未来が同時に存在しているような不思議な空間だった。
使い込まれた木製の作業机の上には見慣れない工具が散らばり、二枚の翼が付いた大きな砂時計があった。
砂時計であるにも拘わらず、真鍮製の外枠の上部には機械時計の棒テンプが付いている。不思議なのは、砂の動きが途中で止まっていることだ。
「お茶を入れるから、座って待っていて」
繰り返し言ってから、青年は奥の扉を開けて出て行った。
作業机はとても大きかったけれど、椅子は二脚しかない。
机を回って向かいの椅子に座ろうとしたが、座面には水色のハットボックスが置いてあった。スモモコが抱えていたハットボックスだ。二対の白い翼が描かれたその箱を作業机の空いた場所に移動した。思ったより軽かった。
そっと
彼が出て行った扉に背を向けて浅く腰掛けた。
青年はここの技師だと言っていたけれど、なんの技師なのだろう。金属の小さな部品や工具が散らばる作業机をぼんやり見ていて、砂時計のかげの写真立てに目が留まった。
わたしからは裏側しか見えなかったが、たぶん仏蘭西菊洋装店の薔薇飾りの写真立てと揃いのものだ。あの写真立てには、硝子の棺で眠るラファエルという名の少年とそっくりの少年少女の古い写真が収まっていた。これには、どんな写真が収まっているのか。
扉を振り返っても青年が出てくる気配はない。好奇心には勝てなくなり作業机に身を乗り出して、向きを変えた。ずっしりとした重さが過ぎた時間のように手に伝わってくる。
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