ブラックベリー

 この血は、なんの血だろう。

 まさか、兎の血?

 サリが兎を仕留めたのだろうか?

 それとも、サリの血なのだろうか?


 兎は意外に気が荒い。ましてや、三月の気の狂った兎だもの。小柄なサリが兎の逆襲にあうことだって、大いに有り得る。


 心臓が破裂しそうになりながら、血を踏まないように注意して玄関ドアまで行った。

 たたずまいはフランス菊洋装店に似ている。玄関灯も同じものだ。でもドアの横はショーウインドウではなく、ヨーロッパ調の格子がはめられた磨り硝子の窓になっていた。

 木製のドアには小窓はなく、代わりに「青猫商会」の文字が打ち付けられている。真鍮製らしい文字は磨き上げられ、玄関灯の光を受けて金色に輝いていた。機械時計のこぐまも磨けば、こんなに光るのだろうか。


 血の雫はその文字の真下で終わっていた。

 玄関ドアの横にカメラ付きのインターホンがある。

 サリのことが気が気ではなく、カメラを避けるようにしながらインターホンを押した。

 すぐに若い男の人の声が返ってくる。落ち着いて曇りもなく澄んだその声は、どこかで聞き覚えがあった。

「どうぞ。開いていますから、お入りください」


 わたしは付きまといやストーカーで、男性恐怖症が重症化している。助けてくれようとしたコンビニの店員さんの手でさえ払い除けたくらいだ。それなのに誰だかわからない男の人の声で「お入りください」と言われても、そう簡単にドアを開けて入って行くことなんてできやしない。青猫商会がなんの店なのか不明だし、この血だって誰のものともわからないのだ。確実にドアの向こうにサリがいるのならば話は別だけれど、定かではない。

 返事もせずに躊躇ためらっているわたしの姿をモニターで見ているのだろう、また同じ声が言った。

「どうぞ、お入りください。遠慮なく」

「すいません、あの、こちらに猫と兎が入ってこなかったでしょうか」

 ありったけの勇気を振り絞って、インターホンに向かって言った。声が震えている。こんな些細なことでさえ、一大決心と限りない勇気が必要だった。


 ドアが不意に開いた。

 ドアを開けたのは、わたしと同年代の青年だった。あらゆる人種の血を引いているようにも見え、一見しただけでは国籍不明。肌は内側から光を帯び、黒橡くろつるばみ色の瞳とその瞳と同じ色の艶やかな巻き毛をしている。息をするのも忘れるくらい眉目秀麗な青年だ。 

 誰かに似ている。どこかで会ったことがある。だけど、それがいつ、どこでだったかは思い出せない。その疑問が逃げ出しかけたわたしの足を止めた。こんなに美しい青年なら、わたしだって覚えているはずだ。いくら人の顔や名前を覚えるのが苦手なわたしだって。


 青年は目が合うと、いたずらっぽく微笑んだ。

「今夜はまだお客さまは、誰も来ていません。猫も、兎も、人間も。お嬢さん、あなたが今夜、最初のお客さまです」


 どこかで会ったという記憶は、強くなる一方なのにやっぱり何も思い出せない。

 警戒心がフル作動しているにも関わらず、溢れる泉のように懐かしさが込み上げてくる。わたしはどうしていいのかわからず、おろおろするばかりだった。


「……あの、血、そこの血は——」

 そんなこと言うつもりなど毛頭もうとうなかったのに、気が付いたら、血だまりから続く赤い雫のことを口走っていた。


「血?」青年は問い返した。いっそう狼狽うろたえるわたしを、彼は面白そうに見下ろしている。

「これは血じゃない。ブラックベリーのジャムですよ」

「えっ」

「お嬢さんの口の端と、着ているフーディに付いているのと同じ。これはブラックベリーのジャムですよ」


 慌てて口の横をこすると、手に乾いたジャムが付いた。昼間、公園のベンチでジャムパンをかじったときから、ずっと口の端に付けていたのだろうか。

 仏蘭西菊洋装店のあの厳しい管理人さんだってオーナーのリコとスモモコだって何も言わなかったから、フーディに付いたジャムのシミさえすっかり忘れていたのだ。

 コンビニの親切な店員さんも二人連れの学生も気が付いていたはずだ。わたしとぶつかった女性が嫌悪感丸出しだったのも腑に堕ちる。


「ということは、お嬢さんが仏蘭西菊洋装店の噂の編み手さんということだ」青年は茶目っ気たっぷりに続けた。「それなら今日はまだお客さまは誰も来ていないことになる」


 なぜ口の端についたブラックベリーのジャムで、仏蘭西菊洋装店の新米アルバイトだとわかったのだろう。でも、それに反応する余裕はわたしにはない。「ありがとうございました」と頭を下げて、そそくさと立ち去ろうとした。


「あれ、そっけないなあ。仏蘭西菊の編み手さんなら、中に入って挨拶ぐらいしていってよ」青年は急に砕けた口調になった。「ぼくは、ここの技師のミシェル。ミックって呼ばれている」



 ミシェル?


 

 フーディのポケットに入っていた紙片に書いてあった名前だ。

 この青年と関係があるのだろうか。でも、確か、ラファエルと同い年だと書いてなかっただろうか。もし、ラファエルが硝子の棺の美少年のことなら、同い年であるはずはない。

 やはり、関係はないんだろう。そんなことより一刻も早く、サリを探しにいかなければ。仕事以外で男の人とこんなにたくさん話したことなんか一度もない。それも、二人っきりで。


「あの、これで失礼します」

「だから中に入って、挨拶ぐらいしていってよ。せっかく来てくれたんだから。立ち話だけってのも寂しいだろ」

「でも…… わたし、急ぎますから」

「第一関門突破したんだから。あれが読めたんならさ」

「はい?」

「いいから、いいから。さあ入って」


 青年が良くても、わたしは良くない。いくら「さあ入って」と言われたって、初めて来た知らない場所に「それじゃあ」なんて、いそいそ応じられるわけがない。

 青年は片手でドアを大きく開けた。中はこぢんまりした応接室になっていて、その奥に半開きの室内ドアがあった。そこから、猫の目が覗いている。


「サリ?!」


 わたしの声に応えるように現れたのは、ベルベットのような毛並みをした灰色の猫だった。サリじゃない。一瞬の期待は立ち所に消えた。


「天使長も、新人さんの顔を拝みに出てきたのか」青年は灰色の猫をひょいと抱き上げた。「こいつ、天使長っていうんだ。サリって、きみが最初に言っていた猫の名前?」

「はい。サリエルっていう名前です。この路地で見失ってしまったんです」

「それで、ぼくのところに挨拶がてら訪ねて来たってわけか」

「あっ、いえ、玄関の前の血が気になって」

「血じゃなくて、ブラックベリーのジャムだよ」

「これで失礼します。わたし、サリを」


「きみは、そんなにぼくが気に入らないわけ?」青年はひどく傷付いた顔をした。


「わたし、サリを探さなければ……」

「それなら、天使長が知っているかもしれない。彼に頼んでみるといいよ。家出猫を見付けるには、近所のボス猫に『うちの猫を見かけたら、早く家に帰ってくるように伝えてください』と伝言を頼むといいの知らないの? ボス猫に説教されて家出していてもちゃんと帰ってくるんだよ」


 そのおまじないなら聞いたことがある。でも、サリはもう死んでしまっているんだ。灰になってしまった。それを生きている猫に頼んでも無理なんじゃないのだろうか。管理人さんがわたしに機械時計のこぐまを動くようにしろと言うのと同じくらいに無理な気がする。


「にゃお」

 灰色の猫が青年の腕の中で鳴いた。


「ほら。天使長も言っている。ここで、こうして長々と立ち話をしていたって時間が無駄になるだけだしさ。天使同士なんだし」

「天使同士……?」

「きみの猫もサリエルなんだろ。天使の名前じゃないか。こいつの本名もアルカンジュっていうんだ。呼び名はアルか、天使長。アルカンジュは大天使って意味だからね。仏蘭西菊のみんなは天使長と呼んでいる。きみも天使長と呼ぶといいよ。こいつも喜ぶだろう。天使長はこう見えても、けっこう顔のきく事情通なんだぜ」


「にゃお」

 猫の天使長は、青年より自分の方が格段に頼りになるぞという顔をした。


「それに兎ならじきに戻ってくるだろうから、中で待っているのが得策だよ、仏蘭西菊の編み手さん」

 そう言いながら青年は、天使長を押し付けるように手渡した。

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