三月うさぎは狂っている

 機械時計のこぐまの濡れた瞳が、コンビニの明るすぎる照明の下で光っている。

 サリは生き返らないけれど、こぐまは動力さえあれば動くことができるんだ。

 そう思った瞬間、このこぐまを動くようにしなければならないという使命感がむくむくと湧き上がってきた。馬鹿げたことに、それは根拠のない自信まで伴っている。


 だけど、わたしにできることはレースを編むことだけだ。レース編みの苺なんかでは、どう考えたって機械時計のこぐまが動くはずはない。管理人さんだって、かぎ針とレース糸で編んで来いとは言わなかった。こぐまとコピー用紙を使って編んでくるようにと無茶苦茶なことを言ったんだ。

 額面どうりの意味ではなく、何かの謎解きなのだろうか。きっと、そうだ。それ以外、考えられない。

 でも、どうして管理人さんはこんな無理難題をふっかけたのだろう。住所氏名も電話番号さえも訊かず、どこの誰ともしれない初対面の人間に高価な機械時計を預けてまで。

 認知症?

 管理人さんの見た目のお年からしたら、考えられないことじゃない。

 だったら、オーナーだというリコやスモモコたちは、いったい何者なのだろう。看護師さんかヘルパーさん? あるいは孫? いずれにしても、認知症なら耳打ちして知らせるだろうし、店を出たところで事情を説明してこぐまを取り戻すはずだ。

 それなのに、リコは当然という顔をしていた。おまけに「絶対に失敗は許されません」とプレッシャーまでかけたのだ。そんな重要な仕事を、なぜアルバイトなんかに任せるのか。


 やっぱり犯罪がらみなのだろうか。ただの捨て駒なら、名前や素性を聞かなかったことにも納得がいく。

 なんだか、狐、いや、兎につままれた気分だ。

 そういえば、今日はまだ三月だ。明日から四月だけれど。

「三月の兎のように気が狂っている」って、言わなかったけ。そんな英語の成句があったような気がする。不思議の国のアリスだって懐中時計を持った白兎を追いかけて不思議の国に迷い込むんだ。

 それとも長い無職生活とサリが死んでしまったせいで、やっぱり、わたしの頭が狂ってしまったんだろうか。


 イートインコーナーに男子学生の二人連れがやって来た。

 急いで機械時計のこぐまをバッグに押し込んだ。

 温めたお弁当の良い匂いがする。お弁当の匂いに釣られるように、彼等のほうを盗み見た。

 イートインの硝子の向こうの歩道を、光を帯びた一匹の猫が走って来る。


「サリ⁉︎」


 学生たちが会話をやめ、わたしを見た。そして、サリも立ち止まり歩道からわたしを見ている。


 大急ぎで紙コップをゴミ箱に捨てコンビニから出ようとしたら、声を掛けられた。

「おにぎり、忘れていますよ」

 サリのことが気掛かりだったけれど、貴重な食料だ。学生たちにお礼を言って取りに戻ってからダッシュで外に出た。


 だけど、サリの姿はもう歩道のどこにもなかった。

 おにぎりなんか取りに戻っているからだ。ずっと、ずっと、サリの方が大切なのに。わたしは泣きたくなった。

 ふと視線を感じて振り返ると、イートインコーナーから好奇心いっぱいの顔で男子学生たちが見ている。彼等からすれば、わたしは完全に不審者だ。


「出入り口の前でボケっと突っ立ているな! じゃまだ、どけ!」

 コンビニから出てきた男に、後ろから突き飛ばされた。

 わたしはよろけて、会社帰りの女性にぶつかった。彼女はさも汚らわしいものにぶつかったように、わたしの体が触れたところを払った。

 とうとう涙が堪えきれなくなった。立っていることさえできなくなって、その場に座り込んだ。


 コンビニの前で泣き出したわたしの膝を一羽の兎が踏み付けて走って行く。

 兎?

 街中の、それも夕方で人の多い時間に兎?


 人混みを器用に縫って走って行く兎に、誰ひとり気付かない。歩道を行き交う人たちはジロジロとわたしを見ても、兎には目を向けない。

 あの兎が見えるのは、わたしだけなのだろうか。幻影が見えるほど、おかしくなってしまったのだろうか。 

 また、わたしの膝を踏んでいるものがいる。


「サリ!」


 サリだった。見間違えようもない縞三毛猫のサリだ。

 抱き上げようとした腕をするりと抜けて、サリは兎の後を追って走って行く。


 コンビニからさっきの外国人の店員さんが出て来た。

「だいじょうぶですか」

 親切な店員さんは助け起こそうとしてくれたのに、その手を振り払うように立ち上がると、わたしはお礼も言わずにサリと兎を追った。


「待って、サリ!」


 幻影だっていい。サリに会えるなら幻だろうが幽霊だろうがなんだっていい。

 突然走り出したわたしを通行人たちが振り返って見て行く。わたしは猫や兎と違って、うまく人混みをかわせない。向こうからけてくれる人もいたが、何度も体がぶつかった。


「危ないじゃないか!」

「気をつけろ!」

 通行人たちの罵声が飛ぶ。

 だけど、いちいち気にしてなんかいられない。

 怒鳴られたって、かまやしない。

 ぶつかったって、かまやしない。

 他人を恐れてビクビクするのは、もうまっぴらだ。

 気が狂っているなら、それでいい。だけど気が狂ってまで人に気を使い、怖がるのはもう嫌だ。


「待って! サリ、待って!」 


 いくら呼んでもサリは振り向きもせずに、兎の後を追いかけて行く。

 猫って、そうだ。何かに夢中になっていると、どれだけ名前を呼んでも見向きもしない。


「サリ、サリ!」


 何度も呼んでいるうちに、サリの耳が後ろを向いた。

 聞こえている。サリにわたしの声が届いている。それだけで、また涙が溢れそうになった。でも泣いている場合じゃない。今はサリに追いつかなければならないんだ。


 兎とサリが、表通りから脇道に曲がる。

 脇道の二本目の四つ角を左に曲がった奥に、仏蘭西菊洋装店がある。兎はあの店に向かっているのだろうか。

 でも、兎は二本目ではなく、三本目の四つ角を左に曲がって行った。サリもその跡を追う。兎とサリの間は縮まっていくが、わたしとサリとの間は開いていくばかりだ。

 わたしがようやく三本目の角を曲がったときには、サリたちの姿はどこにもなかった。


 見失った?

 ううん、諦めるのはまだ早い。兎や猫のことだもの。建物のわずかな隙間に入ったり、開いた窓や戸の中に潜り込んで行くことだってあるんだ。


「サリ、サリ。どこにいるの? サリ」


 路地を歩きながら、サリの名を呼んだ。表通りと違って誰もいない。どの窓にも明かりが煌々と灯り、路地全体はこんなに明るいのに、生活音一つ話し声一つ聞こえてこない。サリの名を呼ぶわたしの声だけが、路地裏に響いていく。気が引けて、わたしの声はだんだん小さくなっていった。


 路地の奥の古い建物は仏蘭西菊洋装店のあるビルとよく似ていた。石造りの四階建てだし、同じ建物なのだろうか。二本の路地の間に建っていて、片側に玄関があってもう片側に裏口があるのかもしれない。あの店は奥行きがあったし、奥にも別の部屋がまだありそうだった。

 兎や猫が潜り込めるところを見落とさないように気をつけながら、石造りのビルまで行った。

 やはり同じビルだ。

 でも裏口ではなく、別のテナントだった。


 テナントの前の道路に血溜まりがある。わたしは悲鳴を上げそうになった。その血溜まりから、玄関ドアにまで赤いしずくが点々と続いていたのだ。

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