猫は月の船に乗って
生まれたばかりのサリに初めて会ったのは、三年前の土砂降りの雨の夜だった。
会社の帰り道、激しい雨音に混じって「キーキー」と、か細いけれどよく通る声が聞こえた。
声を追っていくと、街路灯に照らされた水たまりの中に小さな何かが
近くに寄ってみると違った。それは、まだへその緒がついたままの目も開いていない乳飲み猫だった。
土砂降りの中、あたりに親猫の姿はない。こんな雨の中、親猫が隠れ場所を移動するために子猫を運んでいるとも思えない。ましてや、水たまりの中にそのまま置いておくなんて考えられない。
わたしはハンカチ代わりにいつもハンドタオルを使っていた。だから、すぐにその子を抱き上げるとハンドタオルに包んだ。そして、急いでアパートに帰った。
赤ちゃん猫の体は冷え切っていた。どうしたらいいのかわからず、ネットで手早く検索した。調べ物をするのは得意だった。仕事で作り図や編み図を書いたりするときに調べることも多かったから、検索のコツも心得ている。
赤ちゃん猫は自分で体温調整ができないので、温めなければ低体温で死んでしまうらしい。すぐに四十℃くらいのぬるま湯を用意して、頭だけ出して赤ちゃん猫を浸した。ぬるま湯の中で、そっと優しくマッサージしているうちに、赤ちゃん猫の体温は戻ってきてくれた。
体温の戻った赤ちゃん猫の体を拭いて乾かし、空き箱にフリースの布を厚く敷いてから入れた。箱の中がお母さん猫の体温と同じくらいになるように、湯たんぽを布に包んで箱の隅に置いた。湯たんぽといってもペットボトルにお湯を入れて作った即席のものだったけれど。
子猫用のミルクなんてあるはずもないから、応急処置で人肌ほどに温めた薄い砂糖水を作った。これもネットで調べた。それを脱脂綿に含ませて、一滴ずつ口元に流し込んだ。赤ちゃん猫は、なんとか飲んでくれた。
近所にある動物病院も調べて、次の日に会社を休んで朝一番で連れて行った。病院で色々教えてもらって、子猫用のミルクと哺乳瓶、シリンジも買った。
赤ちゃん猫は体温調整と同じように自力で排泄もできないそうだ。だから、ミルクを飲ませる前と後に脱脂綿やティッシュなどでお尻を軽く優しく刺激して、排泄を促してあげないといけない。
注意すべきは、ミルクをあげるとき。決して、人間の赤ちゃんみたいに仰向けにして、飲ませてはいけない。気管にミルクが入って肺炎になることがあるからだ。
水たまりにいた赤ちゃん猫は弱ってまだミルクを吸う力がじゅうぶんでなかったから、哺乳瓶ではなくシリンジで一滴ずつ舌にミルクを垂らした。
わたしは赤ちゃん猫に「サリ」という名前をつけた。無垢な赤ちゃん猫は天使そのものだったから、天使の名前の一つサリエルからとったんだ。
それから、わたしとサリの生活が始まった。
そのときのアパートは動物が飼えなかった。それで、すぐさまペット可の部屋を探して引っ越しをした。とんだ出費だったけれど、今と違って定職に就いていたし貯金もあった。今より少し若くて、今よりずっと行動力があったんだ。
わたしは、よくサリにたずねた。
サリはあの夜、月の船に乗って旅をしていた。それが土砂降りの雨で船がひっくり返って、空から地上の水たまりに落ちてしまったんだ。
「そうだよね」
わたしの問いに、いつもサリは「そうなんだけど。でも、秘密はまだあるの」とでも言いたげに小首を傾げた。
サリが二十年以上生きて立派な猫又になることを、わたしは
仕事を辞めたときもサリだけは周りの人間たちと違って、責めたり嘲笑したりはしなかった。サリは良き相談相手だった。友だちであり、同士だった。
求職活動もうまくいかず、気持ちも生活もどんどん引き籠もっていくわたしをサリは理解を持って見守ってくれた。全世界がわたしを見捨ててもサリだけは見捨てずに、ずっとそばにいてくれる—— はずだった。
一週間前、サリのごはんを買いに行くために十日ぶりに外に出た。部屋のwi-fiはとっくに解約していたし、なんとか生き残っているスマホも節約のためにモバイル通信をオフにしていた。だから、ネット通販で気軽に買うわけにもいかなかった。
自分の食べるものは我慢しても、サリにはひもじい思いをさせたくはない。だから、まだ仕事探しも完全には諦めていなかった。一週間前は公園の木を見たって、首からぶら下がることなんて考えもしなかった。どんなに苦しく厳しい状況下でも、サリのためには持ちこたえなければならないんだ。
歩いて片道五キロメートル先のホームセンターまで行って、サリのドライとウエットのフードを買って帰ってきた。入り口に置いてあったフリーペーパーの求人誌も貰ってきた。ガスは止められたけれど、水道と電気はまだだ。求人誌の表紙には日払いのバイト特集とあった。電話が怖いと逃げていないで今日こそは応募の電話をして、何がなんでも今週中には仕事をしようと覚悟を決めて帰ってきた。
「ただいま、サリ」
いつもなら出迎えてくれるサリがやってこない。
「サリ?」
サリは手足を伸ばし横向きに倒れていた。なぜそんなところで寝ているのかと不審に思いながら近付くと、サリは目を見開き微動だにせず虚空を見つめていた。瞳孔が開いている。
震える手で触ると、あんなに温かく柔らかだった体が冷たく硬くなっていた。
わたしはその日も次の日も泣き明かした。いくら泣いても涙は後から後から溢れ出てきた。身体中の水分が全部涙になってしまっても、それでも涙は留めなく溢れ出した。
翌々日、ようやくサリを公営の斎場に連れて行って
月の船に乗ってやって来た、わたしの味方、わたしの同志、わたしの友だちは訪れたときと同じように唐突にわたしの住む世界のどこからもいなくなってしまった。
サリの亡骸といっしょに部屋を出てから、アパートには帰っていない。サリのいない部屋に帰るのが怖いんだ。サリがいないと思っただけで足が
ホームセンターから帰って来た時の衝撃はわたしを再起不能にしたけれど、でもあのときはドアを開けるまでは何も知らなかったし、息絶えていたとしてもサリの姿はそこにあった。でも、今はもうサリの亡骸さえあの部屋にはなく、わたしはそれを知りすぎるほど知っている。あの部屋のドアの中にあるのは底の無い寂寥だけだ。そんなところに戻れるはずがない。
お財布にまだいくばくかのお金が残っていたときはネットカフェやファミレス、循環線で仮眠をとったりしながら、あてもなく街をさまよい歩いていた。
それがとうとう千円札一枚だけになって、それも無くなって、わたしの全財産はもう見知らぬ国の銀貨が三枚と五円硬貨と十円硬貨だけになってしまった。
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