青猫商会

紙コップは黄昏の国 2

 ぬるくなったコーヒーを一口飲んで、トートバッグから機械時計のこぐまを出した。

 改めて手に取ると、ずしりと重い。

「あっ」

 てのひらに鋭い痛みが走った。こぐまの右の前足から小さなかぎ爪が一本、飛び出ている。その爪が、掌に食い込んでいた。


 持ち上げると左の脇腹の小さな突起に指が触れ、かぎ爪が引っ込んだ。この突起を押すと爪が出たり引っ込んだりするようだ。これを作った人はなぜ、こんな奇妙な細工をこぐまに施したのだろう。


 管理人さんは「機械時計」と言っていたのに、どこにも文字盤や針がない。

 突起の下の留め金を外して中を確かめようとしたが、簡単にはいかなかった。管理人さんは、あんなに容易たやすく開けていたのに。

 留め金を外そうと悪戦苦闘している間にも、こぐまの爪は何度も出たり入ったりした。ついつい、指が突起に触れてしまうからだ。手に引っ掻き傷が幾つもできた。それより、こぐまの爪を折ってしまわないかとそのほうが心配だった。こぐまが作られたのは、わたしが生まれるずっと前だろう。それをここで壊したくはない。わたしは中を見るのをあきらめた。


 真鍮のボディが変色しているとはいえ、目にはきれいな藍玉石アクアマリンめ込まれている。磨き上げれば、そのフォルムだけでもじゅうぶんな価値があるはずだ。わたしのつましい生活なら一ヶ月はまかなえる。これが動いたら、いったいどれだけの値がつくのだろう。専門の西洋骨董店に持っていけばと思いかけて、またしても自己嫌悪に襲われた。

 今日は二度目だ。仏蘭西菊洋装店の硝子棚の前と今。

 どうして高価なものを見ると、すぐにわたしはよこしまな考えが浮かんでしまうのか。以前は美しい、可愛いと思いはしても、その値段を生活費に結び付けてあれこれ考えたりはしなかったのに。

 いずれは躊躇ためらいもなく盗みや詐欺をしてしまう自分がいる。今だって首を括りたくなるくらい、自分をこの世界から消してしまいたいくらい嫌気がさしているんだ。

 とにかく仕事だ。仕事をするんだ。仕事をして収入があれば、変な考えも浮かばなくなるだろう。

 だけど、やっと見付けた仕事先は硝子の棺で眠る美少年がいる店だ。そこにあった品物なんて、どんないわく因縁があるのかわかったものじゃない。それこそ盗品の可能性だってある。

 仕事をしてもしなくても行き着く先は罪人で、地獄行きなのだろうか。


 いっそのこと此処に置いていってしまおうと考えたとき、こぐまと目が合った。

 変色した真鍮の体とは違って、こぐまの目の藍玉石アクアマリンは輝きを保ち濡れたように光っている。なんだか泣きながらわたしに訴えているように思えた。

 なぜ、こぐまは泣いているのだろう。こぐまは何を訴え、わたしに何をしてほしいのだろう。

 動力が無くて動けないのが、悲しいのだろうか。

 管理人さんは編み図の苺のモチーフを一つ編んで、こぐまの香箱に入れたら動くと意味不明なことを言っていたけれど…… 。

 渡された編み図をトートバッグから出した。何度見ったって、伝統的なモチーフを組み合わせたアイリッシュクロッシェレースの編み図だ。機械時計の動力の設計図じゃない。


 日本の編み図の編み目記号はJIS日本工業規格で決められていて、この記号で編み方が表示される。

 鎖編みは楕円の形。中長編みは『T』で表す。長編みはその『T』の縦の棒に、左肩上がりの斜線を一本入れる。長々編みなら斜線は二本、三つ長編みなら斜線は三本。

 細編こまあみの記号は『+』だが、『X』で表すこともある。

 海外は記号ではなく、言葉で表すことが多い。例えば、細編み五目なら、そのまま「細編み五目」。日本なら『+++++』、あるいは『XXXXX』で表すのが一般的だ。

 編み目記号で書かれているから、この編み図は日本で最近書かれたものだろう。アンティークのテーブル掛けから編み図を書き起こしたのか、あるいはオリジナルデザインの編み図なのかはわからないけれど。 


 動力云々うんぬんは置いておくにしても、こぐまの中にある香箱に入るサイズとなると、とても小さな苺を編まなければならない。一般向けの手芸店にあるレース糸では大きくなりすぎて、到底入らない。縫い糸、それも一番細い番手の糸で極細レース針を使っても、やっとだろう。それも、かなりきつめに編まなくてはいけない。

 これからアパートに戻れば、レース針も細い糸もあるから、明日までには楽勝で出来上がるはずだ。香箱に入れて確かめることはできないけれど、管理人さんが開けたときの記憶を頼りに何個か編んでいけばいい。明日、糸とレース針を持参してサイズを確認しながら編むことだってできる。



 でも、アパートには帰れない。



 今月のお家賃は払っていないけれど、まだ追い出されたわけではない。ガスは止まっているけれど、電気は来ている。

 だけど、サリがいない部屋になんて帰れやしない。戻れるわけがない。

 サリがいないと思っただけで、足が竦んで動けなくなる。こうして座っていたって、寂寥の真っ暗な奈落の底に落ちていく。


 いきなりスマホが鳴り、奈落のうちからコンビニに引き戻された。


 トートバックからスマホを出したら、着信音は鳴り止んだ。かけてきたのは、またあの見知らぬ番号だ。今度は留守電が入っている。薄気味悪いこと、この上ない。だけど気にはなる。

 確かめようか迷っていたら、突然、足元で「みにゃ」と猫の声がした。聞き間違えようもないサリの声だ。

 驚いて、あたりを見回した。

 コンビニの店内は相変わらず混んでいたけれど、イートインにはわたし一人だ。

 コンビニに猫は入れない。当たり前だ。

 しかも、サリは死んでいる。四日も前に灰になってしまった。もうこの世界のどこを探したって、サリの姿はないんだ。


 サリが生き返るのなら、なんだってする。なんだってできる。サリさえいれば、アパートにだって帰ることができる。

 でも、サリはわたしの前から永遠に姿を消してしまったんだ。

 わたしは冷めたコーヒーを一気に飲み干した。



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