銀葉の館
十三の断片
フーディーのポケットに入っていた紙を広げると、十三の散文詩のようなものが流麗な筆記体で書いてあった。見た瞬間は、全く読めなかった。読めないと思った。でも眺めている内に、ラファエルという名が書いてあるのがわかった。仏蘭西菊洋装店の奥で、硝子の棺に納められている少年の名だ。あと、ミシェルとアンジュという名。
三つの名がわかると、
それなのに、これはわたし宛に書いてあるような気がしてならなかった。誰かが、わたしに向かって、書いたんだ。そう思ったけれど、それがどういうことなのかは全くわからない。混乱は増すばかりで、とうとう自分の考えていることさえ理解できなくなった。このまま、わたしは狂ってしまうのかもしれない。
***
【XIIIの断片】
(Ⅰ)
少年のころ、ぼくはラファエルの兄の館で暮らしていた。
ラファエルとぼくは同い年だ。
この館で、ぼくはミシェルと呼ばれている。
ミシェルは、ぼくの本名じゃない。ラファエルだって本名じゃない。
ぼくらの呼び名を決めたのはアンジュだ。アンジュはラファエルの実の兄。
ぼくたちの呼び名には、アンジュの皮肉が込められている。
でも、一番の皮肉はアンジュ自身だ。彼だって、本名じゃないんだから。
(Ⅱ)
アンジュは幾つも領地を持っている。
世界が争いの中に落ちていくような時代には、きな臭い戦火の匂いと共に陰鬱な事件もあちこちで起こる。
アンジュの領地は増えていく一方で、彼は、ぼくたちの住む
その方が、ぼくとラファエルには好都合だ。
ぼくらの背中に生えてくる翼の芽を
(Ⅲ)
アルカンジュは、ぼくの猫。灰色の綺麗な雄猫だ。
ぼくはアルと呼んでいる。
本名だから、いつも堂々と歩いている。
アンジュにも怯えていない。
(Ⅳ)
この館の使用人たちは、めったに口をきかない。執事も。料理人も。庭師も。小間使いも。下働きのものたちも。
ぼくにとって、彼等は洋燈が作る影と何ら変わりがない。
(Ⅴ)
この館で音らしい音といえば、ぼくの弾く
(Ⅵ)
ぼくもラファエルも、昼間は教師たちのいる学舎で過ごす。
そのために、ぼくらは別々の建物を与えられている。
教師たちは授業で必要なこと以外話さない。彼等も洋燈が作る影と同じだ。
ただ、勉強が進んで、一番最後におじいさまの神殿からやって来た機械時計の教師だけは随分とようすが違ったけれど。
(Ⅶ)
ラファエルが彼の教師たちを本心ではどう思っているのかわからない。
ぼくとラファエルの学舎が別なように、教師たちも全く違っているからだ。
(Ⅷ)
教師たちに唯一共通しているのは、ぼくらに決して体罰を与えない点だった。
授業を聞かずに窓の外を見ていても、学舎の窓から庭に出て行っても、どれだけ酷い落第点をとっても、彼等は手の甲でさえ鞭で打ったりはしない。
この館で、ぼくとラファエルに鞭を振るうのは、アンジュだけだ。
(Ⅸ)
授業が退屈でたまらなくなると、ぼくは
ぼくがリラを奏でると、蝶たちがヒラヒラと集まってくる。
蝶は、
籠から逃げ出した蝶たちが、ぼくのところにやってくるんだ。だけど、ぼくはまだこどもだから、この蝶たちをどうすることもできない。ただ、ぼくの周りを舞わせておくだけだ。
そのうちにリラの音を聞きつけた従僕がやってきて、蝶たちはすぐにまた元の籠に入れられる。
アンジュが館に戻ってくれば、この
(Ⅹ)
医師はオーレ・ルゲイエといった。
ぼくとラファエルは、朝晩二回、オーレ・ルゲイエから診察を受ける。彼はアンジュの腹違いの長兄だ。
オーレ・ルゲイエは診察のときに、ぼくに色々面白い話を語ってくれる。教師たちなんかより、ずっと面白い。この館で笑顔を浮かべるおとなはオーレ・ルゲイエだけだ。だから、ぼくも医師の前だけでは笑うことができる。
(Ⅺ)
館のミモザアカシアは、いつも花が咲いている。
ここには、どんな戦火も天災もやってこない。
アンジュさえ帰ってこなければ、ミモザアカシアに囲まれた古い館は物憂く静かで退屈だ。
(Ⅻ)
庭から続く森の奥には榛の木とフランス菊の花に囲まれた湖がある。
フランス菊の花畑には三羽の兎が住んでいた。
兎たちは、それぞれ果実の名前が付いている。ポワールとプリューヌとスリーズ。洋梨と
アンジュとラファエルの兄弟には三羽の兎の区別はつくようだ。でも、ぼくにはまるで見分けがつかない。みんな同じ兎に見えるから、別々の名前が付いていたって意味がない。
兎は時々、館の庭の噴水のところまでやってきた。一羽だけだったり、三羽いっしょだったり。
三羽いっしょのときは、ぼくにとっても、ラファエルにとっても、ろくなことが起こらない。アンジュがぼくたちを「ミック」「ラフ」ではなく、「ミシェル」「ラファエル」と呼ぶときと同じように。
(XIII)
ぼくは久しぶりに
リラの音色に引き寄せられるように、蝶たちが集まってくる。その中に一羽だけ、飛び方のおかしい蝶がいた。蝶はカタバミの葉に落下するように止まった。
そこに従僕がやってきて、飛んでいる蝶たちを捕まえて連れて行った。従僕の姿が見えなくなると、ぼくは屈んで蝶を見た。その蝶には片方の翅しかなかった。どうして飛べたのだろう。手を伸ばすと、蝶はひらひらと舞い上がった。
カタバミを踏む音がする。
従僕が戻ってきたのかとヒヤリとして振り返ると、そこにいたのはフランス菊の湖の兎だった。少女の姿になって、驚くほど近くにいる。
スリーズ。ススだ。
この兎だけは、近くで見れば、ぼくにも区別がついた。
兎の姿のときは名前の通り左耳の下にさくらんぼみたいな斑らが二つあって、少女になるとそれがリボンに変わるんだ。
蝶はススが差し伸べた指に止まった。ススは冷ややかな目でぼくを一瞥したあと、片翅の蝶を連れて湖に帰って行った。
ぼくは気になって、ススのあとについて行った。
湖には霧が立ち込めている。ススの姿はない。榛の木のところまでくると、片翅の蝶が蜘蛛の巣に掛かっている。ススは蜘蛛の餌食にするために蝶をここまで連れてきたのか。
蜘蛛の巣から蝶を解き放ったとき、やっと違う蝶だと気が付いた。同じ片翅でもさっきの蝶より小さく、微光色に輝いていた。だから、霧の中でも目に付いたのだ。
ぼくは蝶を捕まえようとした。
「みゃお」
猫のアルの声が聞こえて一瞬気を逸らした隙に、微光色の蝶は跡形もなく霧の中に消えてしまった。
***
わたしはその紙片を適当に折り直し、三枚の硬貨といっしょに再びポケットに押し込んだ。
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