編み図

 プリンターの音がして、老婦人がコンピューターの前から立ち上がった。

「今、仕事の資料を持って行きますから、そのまま座っていてください」


 それでまた椅子を移動するタイミングを逃してしまった。

 老婦人はポケットファイルを一冊持って下座側の椅子に座った。バタフライテーブルの上でファイルを開き、真ん中あたりから一枚の編み図を取り出して、わたしの方に向けて置く。


「これに何が書いてあるか、わかりますか?」

「アイリッシュクロッシェレースのテーブル掛けの編み図が書いてあります」


 わたしにしては珍しく即座に答えることができた。

 アイリッシュクロッシェレースは、かぎ針を使って編むアイルランドの手編みのレース。三つ葉シャムロックや薔薇、葡萄や木の実などの植物がモチーフになっている。かぎ針を使うから、ボビンレースや同じイギリスのシェットランドレースより立体的な仕上がりになる。ちなみにボビンレースは糸巻きボビンを使って、シェットランドレースは棒針を使って編んでいく。


 わたしの前にあるアイリッシュクロッシェレースの編み図は、繊細でとても凝ったものだった。これを仕上げるには何ヶ月もかけて丹念に編み上げていかなければならない。できあがったら、どれだけ美しいレースになるのだろう。

 老婦人が、また質問した。


「主に、なんのモチーフで構成されていますか」

「中央は苺の花と葉です。それと、ところどころに四つ葉。周囲は苺の花と葉の他に、立体的な苺の実で構成されています」

「このレースのタイトルは『聖母マリアの苺』といいます」


 なるほど。編み上がってテーブルに掛ければ、そのテーブルは聖母マリアさまの恵みの苺畑になるのだ。


「あなたは、苺の立体のモチーフが編めますか?」

「はい」

 苺の花、葉、実、どれもこれまでに何度も編んだことがある。


「それでは、明日までにこれを編んで、ここに持ってきてください」

「全部をですか」

 こんな大作を一晩で編むなんて無理だ。


「いいえ、全部ではありません。苺の実一つで、けっこうですよ」


 それなら、だいじょうぶだ。苺の実のモチーフ一つだけなら、ほんの数分で編めてしまう。


「これが、あなたの最初の仕事になります。この仕事の出来如何によって、あなたの本採用が決まります。採用試験と言い換えてもかまいません。本採用になっても、まずはアルバイトからになりますけれどね。アルバイトになれば月払いの時間給ですが、今日は日給です。出来上がったモチーフと引き換えにお支払いします」


 長い間仕事探しに苦戦していたのに、人違いからあっけなく仕事が決まってしまった。これくらいの仕事なら、わたしにだってできそうだ。日給がもらえるのなら、今日を乗り切れば、明日にはお財布の中身は小銭だけではなくなる。これから来るはずの求人に申し込んだ人には申し訳ないけれど。


「今から、あなたに必要な道具と材料をお持ちします」

 老婦人は立ち上がり小机の引き出しから鍵を出すと、硝子棚の前に行った。扉の鍵を開け、陳列品の一つを取り出すと扉を閉め、また鍵をかけた。


 高価なアンティークばかりだもの、扉には鍵をかけているんだ。その方が、わたしも安心だ。老婦人やオーナーの女の子たちから、あらぬ疑いをかけられずにすむ。そう思ってから、わたしは自己嫌悪に陥った。どうして、こんなことばかり思い浮かぶのだろう。以前は疑いをかけることも、かけられることも思いもしなかったのに。


 老婦人はプリンターが吐き出したA4紙も取って戻ってきた。

「わたくしは管理人です。あなたに老婦人と思われる筋合いはありません」

 老婦人……管理人さんの口調は敵意丸出しだった。


「えっ、あっ、すいません」

 わたしは狼狽えて謝った。

 それにしても管理人さんには、わたしが考えていることがわかるのだろうか。それなら余計に変なことを考えないように気を付けなければならない。でもそう思えば思うほど、店内の高価な品々と絶望的な経済状態が頭の中でぐるぐる回った。


 A4紙はプリンターから出てきたばかりなのに、白紙のままだった。その白紙の上に、管理人さんは硝子棚から出してきたものを置いた。それは、こぐまの形をした真鍮製の大きめのピルボックスだった。あるいは小型のジュエリーボックスなのかもしれない。表面が変色しているから、硝子棚の他の陳列品と同じく年代物なのだろう。


 ちなみにピルボックスは、丸薬ピルや小物などを入れる容器のことだ。アンティークのピルボックスにはコレクターがいるほど人気が高い。わたしは小さく繊細なものが好きだ。だから、精緻なアンティークのピルボックスは憧れだった。だけど会社勤めをしていたときでさえ、生活でいっぱいのわたしのお給料では手が出なかった。それで手頃な値段のレプリカで我慢していた。でも、それも失業してから編み溜めたレースといっしょに売ってしまった。それこそ雀の涙ほどの金額にしかならなかったけれど。

 さっき硝子棚をのぞいていたときは、こぐまには気が付かなかった。こんなにかわいいこぐまならぜったいに目に付くはずなのに。


「これが今回の仕事であなたにお預けする道具と材料です。これを使い編み図を参考にして、明日までに編んできてください。編み図はこれからも必要になりますから、ご自分で保管しておくように。質問はありますか」

 管理人さんは事も無げに言った。驚いたわたしはつんのめるように聞き返した。

「あの、道具と材料って、おっしゃいましたよね?」

「はい。これが、今回、あなたが使う道具と材料です」


 わたしは焦りまくった。

「アイリッシュクロッシェレースを編むのに必要な道具は、かぎ針とレース糸ですよね? それがこぐまのピルボックスと白紙……」

「あなたは何を見ているのですか。この子はピルボックスでもジュエリーボックスでもありません」


 それじゃあ、何だっていうのだろう。このこぐまがピルボックスでもジュエリーボックスでもないのなら、ミニチュアの編み針ケースとでもいうのだろうか。そうだとしてもこの中に収まるかぎ針じゃ、こびとか妖精にでもならない限り使えやしない。それに、こぐまの容器を「これ」とか「この」じゃなくて、なぜ「この子」なんだろう。


 混乱するわたしを見ながら、管理人さんは美しい眉をしかめた。

「この道具と材料に、あなたはなんの不足不満があるというのですか」


 不足も不足、不満も不満。かぎ針とレース糸を使わずに、どうやって真鍮製のこぐまと白紙でアイリッシュクロッシェレースを編めというんだ。


「物分かりが悪い人ですね。そんなことではここでの仕事は何一つできませんよ」

 管理人さんは棘のある口調で言った。

 でも、わたしは面接に来たわけではないんだ。やっぱり本当に面接に来る人に、この仕事は譲ろう。人違いで得た仕事なんて、ろくなことにはならない。

 だけど、翠の瞳に射竦いすくめられ、仕事を断るなんて言えなくなってしまった。わたしときたら、いつだって必要な時に必要なことが言えなくなる。無職になってからは何もかもが怖くて尚更だ。


 真鍮製のこぐまを黒手袋の手に取ると留め金を外し、管理人さんはこぐまの上半分を開けてから、わたしにその内部が見えるように置いた。



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