黒衣の貴婦人
「彼を起こしてはいけません」
鋭い声がして振り向くと、いつからそこにいたのか、
老婦人はきっちりまとめたプラチナブロンドに、織り柄のある黒いサテン地のフルレングスのワンピースを着ていた。両手には黒絹の手袋。抜けるように白い肌がさらに際立っている。
幾つなのかはわからない。六十歳以上なのは確かだろうが、百歳二百歳と言われても納得がいきそうな不思議な雰囲気をしている。それにしても、なんて美しい人だろう。生まれついての美貌に、時間がさらに磨きをかけた最上級のアンティークみたいな人だ。この店の雰囲気にとても似合っている。
何か言わなければと焦ったが、何語でなんと言ったらいいのかわからない。母国語の会話ですら苦手なわたしに、外国語なんて話せるわけがない。
「『すずめぐさ』でも、夜は眠ります。彼は眠らせておいてください」
なぜかわからないけれど、わたしは彼女の話す言葉が聴き取れた。そうだ、さっきも「彼を起こしてはいけません」と言ったんだ。
でも聴き取りはできても、その意味することがわからない。この美少年の名が「すずめぐさ」とでもいうのだろうか。だけど午後の遅い時間だとはいえ、今はまだ夜ではない。
「彼の名はラファエルといいます。すずめぐさではありません。『すずめぐさ』はカタバミの別名です」
老婦人はわたしの心を読んだように言った。そういえば、美少年の枕元にはカタバミの花が置いてあった。でもなぜ、それが「少年を起こすな」につながるのだろう。
炎を秘めた
「カタバミは『すずめぐさ』以外にも、『すずめの
美少年の枕元のカタバミの花や葉は開いていた。まだ夜じゃないからだ。夜になって、店の灯りが消えたら、カタバミの袴を
老婦人の表情が少しだけ緩んだ。
「あなたが、リコさんの言っていた面接の人ですね」
「あっ、いえ、違います」
急いで首を横に振った。早く誤解を解かないと、店にもこれから面接に来る人にも迷惑がかかる。でも老婦人は無視した。言葉が通じなていないのかもしれない。わたしが彼女の話す言葉—— 何語かはわからないけど—— を聴き取れているだけで。
「カタバミは、他にも『ねこあし』や『かがみぐさ』などの別名があります。中国では『満天星』。フランスやスペインでは『ハレルヤ』とも呼ばれています。ここでの仕事で必要になりますから、覚えておいてください」
仕事の話をされても困る。面接に来たのではないのだし。第一、意味が理解できない。
「わたくしは、この店の管理人をしています。ここのオーナーは、リコさんとスモモコさんとサクラコさんの三人の少女たちです。あなたはリコさんとスモモコさんには、お会いになりましたね」
会ったことは会ったけれど、あのウサギみたいな美少女たちがここのオーナーってどういうことだろう 。リコもスモモコもミドルティーンくらいにしか見えなかった。それなのにオーナーだなんて。それともまだ会っていないサクラコという名の子が、もっと年上なのだろうか。それに洋装店なのに店長じゃなくて管理人だなんて、更にわけがわからない。
「今から仮採用中の仕事についての説明をします。そこに座って待っていてください」
老婦人はバタフライテーブルの前の椅子を目で示し、コンピューターの前に回るとグラスコードに下げていた眼鏡をかけてキーボードを打ち始めた。
えっ、 仮採用中の仕事って?
「あ、あの」わたしは慌てた。「ですから、面接に来たわけじゃ…… 」
「面接は終わりました」
事も無げに言われた。わたしの言葉も通じてはいるようだ。
「すいません、履歴書だって用意していないし、それに求人に申し込んだわけでも」
老婦人は完全無視で作業を続けている。
やっぱり通じていないのかもしれない。老婦人の言葉が聴き取れてもわたしには意味が理解できないように、彼女もわたしの言っている意味が理解できていないのかもしれない。
不意に誰かが背後から腕を回し、わたしの体を抱こうとした。
「ミック!」
老婦人の叱責が飛んでくると、気配が消えた。振り返って見ても、後ろには誰もいない。
「座って待っていなさいと言ったでしょう」
「はい 」
わたしは、すごすごとバタフライテーブルの前に行った。でも四脚あるうちのどの椅子に座ればいいのか、わからない。
ハロワで受けた模擬面接のセミナーのときに上座と下座の位置を教えてもらったはずだけれど、思い出せない。わたしって、いつもこうだ。雀がカタバミの袴をたたんでいる所はすぐに思い浮かんでも、肝心なときに肝心なことが思い出せない。
いきなり後ろに抱き寄せられ、片手で口と鼻を強く塞がれた。
殺される—— 恐怖で全身が硬直した。もう一方の手がフーディーの前ポケットに
「ミック!」
再び老婦人が叱責すると、わたしはその両手から解放された。老婦人はきつい口調でわたしに向かって言った。
「あなたが、いつまでもそんなとこに突っ立っているからです。さっさとお座りなさい!」
「…… はい」
膝がガクガクして、一番手近な椅子によろよろと座った。座ってから、この位置が上座に当たることを思い出した。
急いで椅子を変わろうとしたら、声がした。耳から聞こえたんじゃない。頭の中で声がしたんだ。でも、何を言ったのかはわからない。
「えっ、なんですか?」思わず聞き返したが答えはなく、周りにはもう誰の気配もしなくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます