ショーウインドー
幸いにも地上にはストーカー男の姿はなかった。
地図に従って表通りからすぐの脇道に入った。二本目の四つ角を左に行った路地の奥に、こぢんまりとした四階建ての石造りのビルが見える。そのビルの一階が仏蘭西菊洋装店だった。ビルというのが憚られるほど古めかしい建物だ。建てられてからおそらく一世紀以上、いや、もっと年月が経っているのかもしれない。
路地に面してショーウインドウと片開きの木製のドア。ドアの横にはヨーロッパの町並みにあるようなアイアンワークの看板と玄関灯が取り付けてある。
ショーウインドウの
あのリコという美少女にしても、わたしに接しているときは言葉遣いも物腰も訓練されたように上品だった。路地裏にあるとはいえ、知る人ぞ知る高級店なのかもしれない。少なくとも、わたしの着ているようなファストファッションの店でないことだけは確かだ。
玄関ドアの小窓からのぞくと、特別セールのわりには人のいる気配もなくひっそりとしている。柔らかい照明に照らされた店内は、間口に比べて奥行きがありそうだ。店の中央にはモザイクタイルで出来た噴水があった。本物ではなくダミーのディスプレーなのだろう。
わたしは完全に
やっぱりダメだ。
こんな高級そうな店で働くことなんて、できるわけがない。いったい何を勘違いして舞い上がり、店の前まで来てしまったのだろう。
引き返すことに決めた途端、カラランとドアベルが鳴って玄関ドアが内側から開いた。
中からピンクのワンピースを着たウサギが出て来る。
ううん、ちがう。女の子だ。チラシ配りをしていたリコだ。
リコは白樺のカゴではなく、今度は丸い
こっそり店の中を覗いていたのをごまかすために、「さっきは、どうも」と口の中でモゴモゴ言った。
リコは怪訝な顔をして、わたしを見た。
わたしはよけいにしどろもどろになった。「あっ、さっき、チラシとお水を」
リコは黙ったまま、わたしの目をしばらく見詰めたあと、頭のてっぺんから足の先まで無遠慮に眺め回した。それからまたわたしの目を見直して、しばらく考えるように小首を傾げていた。そして、まあいいやとでもいうように、にっこりと笑った。
「わたしはスモモコといいます。お見知りおきを」
それじゃあ、リコのスマホに電話を掛けてきたのはこの子だったんだ。見た目がそっくりだから一卵性の双子なのだろう。
「リコちゃんの言っていた従業員募集の面接の方ですね。どうぞ、中でお待ちください」
「えっ」
「よく、リコちゃんと間違われるんですよ」スモモコは驚くわたしを見て肩を竦めた。「漢字だと
そうじゃない。わたしが驚いているのはスモモコとリコがそっくりなことや名前ではなくて、彼女が「従業員募集の面接の方ですね」と言ったことだ。わたしは一言も面接に来たなんて言っていない。いくらここに来るまでは、その気になっていたとしても。
それにチラシを見たばかりなんだもの。履歴書だって用意しているわけがない。きっと人違いだ。ここの求人に応募した人が面接に来る時間だったんだ。
スモモコは玄関ドアを大きく開けた。
「どうぞ、お入りください」
わたしはおどおどするばかりで言いたいことが何も言えず、スモモコに促されるままに中に入ってしまった。
玄関ドアの小窓から見えたとおり、店内は奥行きもあって外から見るよりずっと広かった。突き当たりにも室内ドアがあるから、更に奥に続いているのだろう。
「わたしは出掛けますが、すぐに管理人さんが来ると思うので、それまでお待ちくださいね」
スモモコはわたしの返事も待たず、ドアベルの音と共に忙しそうに出て行った。わたしは店の中に一人で取り残されてしまった。不安な気持ちを抑えながら周りを見回す。人影はない。初対面の人間をよく確かめもせず一人っきりで店に残していって良いのだろうか。
なぜあの子は、わたしに名前を訊いて確認しなかったのだろう。面接の人とは別人物だってわかったはずだ。
それにだ。わたしときたらフーディにジャムのシミをつけて、髪はボサボサ化粧もしていない。この四日間、着た切り雀で髪も梳かさず顔さえ洗っていないんだ。フーディの赤黒い染みはパッと見には血にだって見える。客として来たって、こんな高級店なら門前払いを受けても文句は言えない。それがどうして従業員募集の面接なんて話になるのだろう。
悪ふざけとしか思えない。あんなにわたしをジロジロ眺め回していたんだ。からかってやろうとでも思ったのかもしれない。店のどこかに監視カメラがあって、わたしのようすを見て笑う魂胆なんだ。
「それとも、詐欺……」
従業員募集をして、面接にやって来た応募者から研修代とか制服代とかを請求する詐欺をニュースで見たことがある。
まあ、それなら、どこをどう探したってお金なんてないのだから騙されようもないんだけれど。失職してから、クレジットカードの更新だってしていない。それは、わたしを一目見ただけで容易に想像できるはずだ。
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