地下通路

 改札口の周辺はいつもより混雑していた。

 車両故障で列車の運行が大幅に遅れているらしい。でも、わたしには関係がない。乗るつもりはないのだから。


 この駅は複数の路線が乗り入れているので地下の通路はちょっとした巨大迷路で、地上への出入り口も多く、自転車のストーカー男をまくには打って付けだった。


 混雑する改札から離れて、誰もいない通路を歩きながら気分は重くなる一方だった。どの出入り口に行こうか。どの出入り口に行ってもあの男が先回りしている気がしてならない。

 地下の明かりに照らされて、ペットボトルが一瞬光った気がした。

 リコがくれたペットボトルとチラシをまだ手に持ったままだった。

 チラシはリコの着ていたワンピースと同じ青味がかったピンク色をしていた。もしかしたら、あのAラインのワンピースは制服なのかもしれない。ペットボトルをトートバッグに入れて、チラシを広げた。


 店名と共に、二羽の白鳥と四つ葉と砂時計を組み合わせたロゴマークが白抜きで印刷されている。公園でカタバミを見たばかりだからか、この四つ葉はクローバーではなくて、カタバミのような気がした。二羽の白鳥の長い首も白蛇のように絡み合っている。

 店名とロゴマークの他には、ヨーロッパの古いポストカードにあるような写真。

 レースのストールが掛かったトルソーと布花のコサージュ。

 アンティークのロケットペンダントや小型の写真立て。

 金属の蓋がついた大小さまざまな硝子ガラスの容器。

 商品だろうか。それとも、ただのイメージ画像? どちらにしても一般的な洋装店というより、西洋骨董風味のおしゃれな服飾雑貨店の雰囲気だ。

 写真の間に『日頃の感謝を込めて一日限りの特別セール。このチラシをご持参のお客様にはご来店記念の粗品を進呈いたします』とあった。リコの言っていたとおりだ。でも、どんな商品がセール価格でいくらになっているのか、具体的には何も記されていなかった。

 この店にも粗品にもとても興味を引かれたが、うかうか行って接客でもされたら、どんなことになるかわかったものじゃない。パンの移動販売車でジャムの小瓶でさえ断れなかったわたしだ。今や全財産は硬貨数枚。断ることも買うこともできず 頭が真っ白になって、パニックになるのは必須だ。あまりの挙動不審さで通報されるかもしれない。警察か病院に。

 そう考えただけで、店に行ってもいないのに心臓がバクバクしてくる。

 いつから、こんな自分になってしまったのだろう。以前はこんなんじゃなかった。行きたいところには行けたし、一人で買い物だってしていたし、友だちだって多くはなかったけれどちゃんといた。

 ストーカーに付きまとわれる前の自分が、まるで赤の他人のような気がした。まだそんなに何年も経ってはいないはずなのに 。

 チラシを丸めてしまおうと思ったとき、一番下の地図の横に小さく『従業員募集』とあるのが目に止まった。



『従業員を募集しています。

 アルバイト可。

 レースなどを編める方。

 編み図が読めて書ける方歓迎。

 実務経験者は優遇します』



「アルバイト…… 」

 失業する前に勤めていた会社は手芸用品全般を扱っていた。わたしはそこで作り図や編み図の担当をしていた。

 作り図も編み図も、いわば手芸品の設計図だ。それを見て指示通りに作っていけば帽子やバックが出来上がる。


 わたしは白いレースが好きで、仕事のかたわらにアイリッシュレースやクンストレース、ブリューゲルレースなど海外のレースを趣味で編んでいた。アンティークのアイリッシュレースの写真を見ながら、何ヶ月もかけて再現したこともある。

 この店なら再就職が叶うかもしれない。レースだって編めるし、編み図だって書くことも読むこともできる。正社員は無理にしても、アルバイトならできるかもしれない。接客とか書いていないし、人前に出ずにすむのなら。ただ黙々とレースを編むことなら、今のわたしにだってできそうだ。


 チラシを見ているうちに、なぜだかこれまでの求職活動の惨敗がするりと抜け落ちて、ここでアルバイトをすることに勝手に決めてしまっていた。わたしを雇用するかどうかは、わたしが決めることではなく雇い主が決めることなのに、そんなこともすっかり頭から抜け落ちていた。

 地図を見ると、どうやらこの通路の先の出入り口を出てすぐの所らしい。このまま真っ直ぐ進んで、階段を上がっていけばいいんだ。そうすれば、再び人並みの日常がわたしにも戻ってくる。

 猫のサリが死んで、四日前に荼毘だびに付してから、やっと決めることができた行き先だ。

 この四日の間、サリのいない部屋に戻るのが怖くてアパートに帰ることもできずにいた。行く当てもないままずっと街を彷徨さまよい続けていたのも、これでもう終わりだ。


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