ストーカー

 不吉な音を立てて自転車が止まる。

 わたし以外の人にとっては自転車の音なんて、なんでもない音だ。でも、その初老の男の自転車の音がするだけで、わたしは気が狂いそうになる。

 その男は、わたしの行く先々にママチャリに乗って咥え煙草で現れる。だから、わたしは自転車が嫌いだ。自転車が、ママチャリが悪いんじゃない。だけど、この男ひとりで、自転車を忌まわしくなるには十分だった。


 まだ会社に勤めていたときから、この男には付きまとわれていた。

 男は通勤電車にいっしょに乗ってきて、会社まで付いてくることだってあった。直接、話しかけてはこない。にやにやと薄気味悪く笑いながらパーソナルスペースにぐんぐん侵入してきて、わたしから何か言うのを待っている。

 誰に相談しても「無視すればすむこと」「実害はないのだし」で片付けられ、挙句の果てに「あなたの被害妄想」と一蹴されてしまった。

 そのうちに、周囲で変な噂が立つようになった。ワンコインで、わたしが男と寝て遊んでいるという噂だ。なぜ、どうしてと叫びたいほど根も葉もない噂だった。仕事帰りに男たちから好色な目で声をかけられたり待ち伏せされるようになってしまった。見ず知らずの男に「整体の無料ボランティアをしているから、これから家に行くよ」と肩を組まれたこともあった。

 わたしは会社にも行けなくなった。なけなしの勇気を振り絞って再びまわりに訴えたけれど「火のないところに煙は立たない」「あなたが物欲しそうにしているから」とひどいことを言われ、状況は改善するどころか悪化していく一方だった。


 会社を辞めてからはハロワや面接に行くくらいしか外に出なかったし、職業訓練校も早い時間に終わったから、変な噂も下火になった。でも、そう思っているのは、わたしだけかもしれない。必要最小限しか外に出ないし人と接しないから知らないだけで、もっと悪い噂が立っているのかもしれない。ずっと無職なんだし。


 振り向きもせず、男の自転車が入ってこられない木立を抜け最短の近道で公園の入り口に向かった。

 これまで、男がこの公園に現れたことは一度もなかった。だから、広くて木立の多い公園は外出時の唯一の避難場所であったのに、それが今日で終了してしまった。


 いよいよ、もうダメだ。本当に、もうだめだ。この世界にはわたしの居場所なんて、どこにもないんだ。


 きっとはたから見たら、わたしの悲愴感なんて滑稽極まりないんだろう。「世の中にはもっと辛い思いをしている人がいる」「何を寝言を言っている」「甘ったれるな」と、ピシャリと片付けられてしまうんだろう。

 でも、でも、もう息をすることさえ、わたしには辛くてたまらないんだ。


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