ジャムの小瓶

 風に血の匂いが混じっている。それで我に返った。


 いつの間にか、わたしはベンチに腰掛け、膝の上に紙袋を乗せていた。紙袋の中にはウサギの頭と小瓶。とはいっても血腥ちなまぐさいものではない。ウサギの顔の形のパンとジャムの小瓶だ。

 ついさっき、公園の入り口に止まっていたパンの移動販売車で買ったんだ。この二つを買うために、失業中のわたしの全財産だった千円札を使ってしまった。

 空腹のあまりパンの香りに釣られて販売車に近寄って行ったのが、そもそもの間違いだった。割高のパンの他に、販売員に勧められるまま硝子ガラスの小瓶に入ったジャムまで買ってしまった。

 小瓶のジャムを買う余裕なんて、あるはずがない。それなら、もう一つパンを買ったほうがよっぽどいい。頭でわかっていても、勧められたものを断れない。渡された紙袋を後悔といっしょにトートバッグに押し込み、ろくに確かめもせずお釣りの硬貨三枚を財布に入れると、逃げるように公園の奥まで来た。そして、自分に嫌気が差したあまり首吊りをしようとして、白蛇に腰を抜かしたんだ。


 血の匂いは消え、代わりに焼きたてパンの良い匂いがする。

 おなかが鳴った。昨日から、何も食べていない。

 首吊りをしてもしなくても、わたしには文字通り野垂れ死に以外の道はない。

 紙袋からパンを出してかぶり付くと口の中が甘酸っぱいジャム——ストロベリーじゃない。ラズベリーか、ブラックベリーだ—— で、いっぱいになった。チョコレートクリームだと信じていたから舌と頭が混乱してむせ返り、あわてて手のひらで口を押さえた。きっとウサギの横に並んでいたクマがチョコレートだったんだ。

 わたしときたら、いつだってこうだ。決まって望んでいないほう、間違ったほうを選んでしまう。

 絶体絶命の状況なのに、節約しようとすればするほど無駄な買い物をしてしまう。わたしが一番信用していけないのは、わたし自身だ。


 失業手当はとっくに終わって、なけなしの貯金も底をついた。もう三月も終わろうとしている。それなのに仕事が決まらない。アルバイトでさえ採用にならない。就活に命綱のスマホも一昨日から充電切れのままで、契約自体が切れるのも目前だ。


 こんなにまで追い詰められているのは、誰のせいでもない。みんな自分のせいだ。だって、面接のために電話をかけるのが怖いんだもの。電話を受けるのも怖い。電話で会話すること自体が怖いんだ。ネットから申し込んだって、向こうから電話がかかってくる。電話口でしどろもどろのわたしに、その先があるわけがない。


 会社を辞めた当初は、こんなんじゃなかった。ハロワにも通ったし、ウェブクリエーターの職業訓練だって受けた。でも、次々に求職活動を失敗していくうちに電話をかけるのも受けるのも怖くなったんだ。人に会うのも人と話すのも怖くてたまらなくなった。もとからの男性恐怖症にぐんぐん拍車が掛かって、性別年齢問わず人間全てが怖くなってしまった。


 なんか、もう、無理だ。何もかも、すべてが無理だ。


 ベンチの周りの雑草カタバミは花盛りだ。ハートの葉っぱの間にレモンイエローの花が溢れんばかりに咲いている。

 カタバミはこんなに可愛い花や葉っぱなのに一度根着いたら、人間が駆除に困るほど地中深く根を下ろすという。尻餅をついて潰したカタバミだって、また蘇るだろう。

 わたしもカタバミみたいに強かったら良かったのに。しっかりと地に足をつけて生活していられたら良かったのに。


 溢れてきた涙で視界がかすんで、黄色い花が紋黄蝶の群れのように見えた。


 死に際して視覚が消えても、聴覚は最後まで残るらしい。死後数分間は、周りの音も聞こえているっていうけれど、ほんとうだろうか。

 最後に見るのがこのカタバミの花なら、最後に聞く音は樫の木を渡る風の音になるのだろうか。

 いや。風の音ならいい。絶対に聞きたくない最悪な音だってある。


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