32:船酔い鬼でも鬼は鬼
「船長、順調でありますね」
深夜の海原は新月の日ということもあり、仄かな星の光が波間に揺らめく海を航海中だ。
波も穏やかで運輸船『しらさぎ』は予定された通り太平洋をまっすぐ横断してアメリカ西海岸の港へ向け進んでいる。普段は輸出される日本の瀬戸物や美術品を運んで、帰りに小麦などの食料品を載せて日本に帰るのだが……今回は民間人が乗っていた。
操舵士の松之助は船長からいつも通りでいい、気にするなと言われて船を動かしているが……まあ、日中その乗客が甲板の隅っこで大変そうにしていたのを見ていたのでなるべく波に沿って揺れないように船を微調整しながら進めている。
「そうだな、いつもより丁寧な操舵だ。お前も上手くなったものだ……俺の客のせいで気を使わせたな。悪い」
単眼鏡で窓の外に広がる大海原を眺めていた『しらさぎ』の船長は松之助に向けて頭を下げた。
白くなり始めた髭と左目の辺りにまっすぐ縦に引かれた傷跡が歴戦の戦士のような雰囲気を持つ初老の彼に、素直に頭を下げられた松之助は目を見開いて驚愕する。
「よ、よしてください船長。自分はいつもどおりの操舵ですよ! 気の所為ですってあの爺さん大変そうだなとか思ってないっす!」
「はっはっは、お前は相変わらず嘘がうまい。お前を拾って何年経つと思ってんだ……しっかりと波を捉えている。もしかしたら俺より操船が上手くなったかもしれねぇな」
「『嵐の龍五郎』にそう言われたら……嬉しいですね」
今でこそ交易船の船長である龍五郎だが、昔は日本海を股にかける日本の大海賊団の長だった。
とある出来事がきっかけで日本政府より大陸間輸送の船を任された以降は、長年海に関わる者たちの間で生きた伝説となっている。
「それだけお前がしっかり海と向き合ってきた証だ、俺もこの航海で船を降りる……慢心せずにな」
「もちろんです!」
「それにしても……だらしないのはあっちだ」
「爺さんですか? 刀差してましたし……お侍さんで?」
「まあ、似たようなもんだが……ずーーっと吐いてやがった」
からからと小気味いい音を立てる松之助が操作する操舵輪と龍五郎の深い溜め息が操舵室に木霊しながら、ゆらり、ゆらりと二人の視界も揺れた……穏やかそのものでもはや陸に上がるとかえって落ち着かないほどなのに。
「仕方ないんじゃないですか?」
松之助が苦笑しながら龍五郎に声を掛ける。
「うん? どういうことだ」
「自分の弟が剣道やってるんですがね。それまで親父について船に乗っててもピンピンしてたのに、今年の盆に船に乗って佐渡まで帰省してきたんですよ……ついた途端医者に運び込まれて」
「なんだそりゃ、体調でも崩してたのか?」
「いえ、何でも剣道で身を立ててから船や電車に酔うようになってしまったとかで……視線がぶれなくなった代わりにそうなったみたいです」
「あー」
なるほど、視線を意識的に固定しているために自然の揺れが影響しすぎたのだろう。今まで気にしなかったものを意識し始めた途端に気になるという感覚は龍五郎にもわかる。
「若先生から薬をもらってるみたいですし、良くなると良いんですがね」
「ああ、変わった医者だったな……確かに持ち込んでる薬は良く効いた。機関室の連中が熱を出した次の日にはピンピンしてやがった」
「アメリカで売られている市販薬らしいですよ。帰りに買ってきたいですね」
「日本でも作り始めているらしいぞ、わざわざ向こうまで行って買うもんじゃない」
なんかヘラヘラとして東洋人でもないのに真っ黒な髪と、出るところは派手に出て、引っ込むところはそんなにかというくらいにくびれている美女だ。掛け値なしの美女だ。
だが、龍五郎はそんな若い女の医者にある人物の影を重ねる。
「そんなことより前向いてろ。俺は客の様子を見てくる」
「わかりました……まあ、なにも起こるわけ」
ないですよ、そう言って笑おうとした松五郎の言葉は最後まで紡がれなかった。
雷にも似た轟音と足元の床が数十センチ浮き上がるほどの衝撃が『しらさぎ』を襲う。
夜間の操舵室は最低限の人員、操舵と航海士を兼ねる船長の二人だったのが幸いだった。倒れ込んで誰かを押しつぶしたりすることもなく、手近な固定されている器具に手を伸ばし無理やり点灯を防ぐ。
「松の字! クジラにぶつかったぞ! 損傷確認だ!」
「はいっ!!」
この海域は極端に深い海溝が多数存在し、座礁などあろうはずもない場所だけに龍五郎がクジラと断定したのは無理もなかった。
「くそっ、暗い……松の字、指示出せるな?」
「任せてください船長」
「よし、俺は客人の安全確認をしてくる」
万が一ではあるがクジラの亡骸が衝突したのであれば、その亡骸に溜まったガスで爆発も起こり得るし……生きていれば攻撃と勘違いして何度も体当たりを仕掛けてくる事もある。
そんな船を救出したことも一度や二度ではない、油断さえしなければ十分ベテランの域にいる松之助で対応は可能だった。
だからこそ龍五郎は頷いて伝令菅に向かって叫ぶ松之助にこの場を任せ、連夜と灯子の安全を確認しに操舵室から飛び出す。
扉に吊るしてあるカンテラをひっつかんで龍五郎ははしごを駆け下りていった……が、そこでようやく気づく。
「あん?」
船は真横に揺れた……であれば正面や背後側には何も無いはずだった……しかし龍五郎の視界には星の煌めきを切り取るなにかの姿が写る。
それは船の各所に取り付けられたライトに照らされて、その一部を露わにした。
「何だあの丸いのは」
―轟っ
一瞬、上に向けて炎の柱が立ち上り……龍五郎の目にその正体がはっきりと視認できる。
「気球!? 海のど真ん中だぞ!!」
「船長!! 機関室が答えません!!」
操舵室の窓から身を乗り出して、松之助が龍五郎へと叫んだ。
「松の字! 船員を全員叩き起こせ!! 事故じゃねぇ!!」
「はいっ!!」
松之助は龍五郎の言葉に一も二もなく従う、何かあったときはまず龍五郎の言葉を信じる。それが海の掟だと徹底されているがゆえに。
疑問や焦りをすべて捨ておいて、松之助は船内の非常警報スイッチを迷わず押し込む。
同時にけたたましいベルの音が船内を木霊して、真っ赤な誘導灯が次々と船を真っ赤に染め上げた。
「どこのバカ野郎だ。元海賊に喧嘩売ってくるとは!」
真っ白なセーラー服のネクタイを右手で剥ぎ取り、気球を睨みながら龍五郎は足早に連夜と灯子の客室がある船の後部へと向かう。
「まったく……連夜殿といると退屈しないな! 最後の船旅ぐらい緩やかにすまねぇのか!!」
どう考えても自分宛ての襲撃ではない、海賊を辞めて政府の依頼で交易船を乗りこなすようになった頃は偶に襲われてきたが(もちろん返り討ちにした)どうやっても海の上では叶わないと思い知らされたのか……数年経つとぱったりとそんな事はなくなっていった。
「だいたいあの気球は何をするつもり……」
さっきから嫌な予感が止まらない龍五郎はその正体をはっきりと目撃する羽目になる。
気球の籠から何かがポロポロとこぼれ落ちて……
「嘘だと言ってくれ」
なにかそのこぼれ落ちた何かからはパチパチと火花がはぜているように見えた。
――ばぁん!
「沈める気か!!」
甲板にあたった瞬間に爆裂したそれは誰が見ても爆弾そのものである。
凄まじい勢いで揺れる甲板をなんとか転ばないように足を踏ん張る龍五郎だが、この段になってもはや抵抗だとかどうにかしようという気は消え失せた。
「ド畜生、戻って退船の指示出さねぇと!!」
船や積み荷などまた作れば良い、そんな些細なものよりここまでついてきてくれた部下……ベテランの域に達した海の男がこんな理不尽に散らされることのほうがよっぽど世界の損失だ。龍五郎は即断で船を捨てる判断を下す。
しかし、無常にも気球はどれだけ爆薬を積んでいるのか景気よく炎の花を咲かせながらゆっくりと船を縦断していく。
「くそっ……だから船首の方から……」
――イの一番、連続発破!!
バァン! ババァァァンン!
「おおっ!」
まっすぐに、ただひたすらに闇を裂き二条の閃光が船の後部から空へと向かい。
直角に気球へと方向転換をする軌跡が龍五郎の視界を横切った。
遅れて頬を叩く爆音が……場違いに懐かしい彼の記憶を呼び起こす。
「水を得た魚……ちげぇや。雷に乗った雷神のお出ましだ! やっちまえ斬鬼ぃ!!」
初めは敵、今は……これ以上無い頼もしい友。
月夜連合の最強と謳われた……連夜があの時と同じ様に空を走って駆けつけたのだった。
――うっぷ
なんか情けない嗚咽は誰の耳にも届かぬまま。
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