31:鬼、海を渡る。

「おうえぇぇ……」


 青い海、蒼い空、大海原に広がる水平線に紛れ込む雑音。


「……」

「えほっ、うっぷ!!」

「……」

「かはっ!!」


 横浜とアメリカ西海岸を繋ぐ交易船は非常に大きい船で、最新の蒸気機関を搭載している火力船だ。

 安定性を高めるために船の各所にはバランスを保つ貯水槽も設けられており、快適とは言えない物の慣れてしまえば酔う事はないはず……なのにここで響き渡るのは水面をかき分ける波の音に混じる嗚咽。


「ねえ、蓮夜……本当に斬鬼なの?」

「うぇぇ……」


 その声の主は白いおさげ髪で長身痩躯の老人だった。


「ちょっと見てる光景が信じられないんだけど私」


 へたり込んで海に向かって胃の中をぶちまけ続ける蓮夜の背を撫でて呆れているのは金髪メガネの少女である。ふくよかな胸のふくらみを外套で隠し、ため息をつきながら愚痴をこぼしていた。


「昨日の夜出発して、朝になったら居ないからどうしたのかと思ったら……天下の月夜連が船酔いとか」

「わし、も初めて……なんじゃ。急に……おええええええええ」


 何とか、息も絶え絶えに少女に向けて言葉を返す蓮夜だが……振り向いた瞬間視界がぐにゃりと歪んで胸から下がぐるんぐるんと掻きまわされる不快感に負けてしまい、はるか下の波へ顔を向けるしかなかった。


「はあ……このままさすってあげるから待ちましょう。船員さんが酔い止め持ってきてくれるから」


 あまりにも悲惨な蓮夜の船酔い姿を見かねて、甲板の清掃をしていた船員の一人が医務室へ向かってくれている。

 すぐ戻ると言った彼の言葉通り、ほどなくして船内へと続く扉が開く音が響いて足音が近づいて来た。

 

「お、いたいた……灯子ちゃん。お爺ちゃんは大丈夫かい?」


 甲板の片隅で嗚咽を繰り返す蓮夜を見て、苦笑しながら近づいてきたのは船の掃除をしていた船員。灯子に小さな小包を渡しながら気さくに話しかけてくる。


 そんな彼に灯子は眉をへの字に曲げながら横に首を振った。


「昔に比べて揺れも少ないからここまで酔う人も珍しいんだけどね……その小包に入ってるのが酔い止めの薬だよ、朝と夕方の二回……一回三錠だってさ」

「ありがとう……ええと」


 船員に言われた処方を頭に入れつつ、何日分あるかを小包を開いて確認する灯子。


「問題なければ二週間でアメリカに着くよ、その分は入ってるはずだ。もし足りなければ早めに医務室にいる若先生に同じものを貰うと良い」

「本当に助かりました……ほら蓮夜、一回立てる? 部屋に行ってお薬飲もう」

「かたじけない……うっぷ!」

「は、はは……大変だな爺さん」


 船員にもお礼を言いたい蓮夜ではあるが、それどころではない。

 胸の奥からこみ上げる酸っぱい不快感や常に左に、右に、前に、後ろにとふらつく視界で気持ちの悪さが倍増していく。とてもではないが言葉を発するごとに内臓が口から垂れ流しになりそうだ。

 そんな蓮夜の視界に長い黒髪の女がゆっくりと歩いてきて、船員に右手に持った水筒を振って見せていた。長い白衣に黒い革のロングブーツを履いて口元を笑みの形に歪めた胡散臭そうな女はへらへらと英語で話し始める。


「Hey, you guys forgot the water(おい、ぼんくら。水を忘れてるぜ)」

「Doctor...I'm sorry, I was careless(すまない先生、忘れていた)」


 どうやらその場で飲めるようにと水まで用意してくれていたらしい、という事はこの人が船員さんの言った若先生という事なのだろうと灯子は理解できた。

 随分とまあ、医者にしてはぱっつんぱっつんの白衣でいろんなところが自己主張している。人の事は言えないのだが……なんとなく身長差から負けた感がぬぐえない。


「水、ありがとうございます」


 それでも今の蓮夜にはありがたい物だしと、水筒を医者から受け取る灯子。

 

「おやぁ? なんだい、同郷の子かと思えば随分日本語が流暢じゃないカ」

「え、あ……日本生まれの日本育ちなんで」


 医者も灯子から飛び出した日本語に驚いたのか、若干発音は怪しいが日本語で彼女に話しかける。慌てつつも英語はしゃべれないと言うのは伝わったのかと視線をきょろきょろと動かしてどうしようかと思案していた……そんな彼女を救ったのは意外にも。


「Is this medicine okay to take now?(これは今飲んでも良い薬か?)」


 蓮夜の口からするすると紡がれる英語に三人共動きを止める。


「爺さん、英語喋れたのか」

「ああ、今飲んどきな。数分もすれば楽になるヨ」

「かたじけない……灯子、すまぬ。水筒を開けてくれ……力が入らぬ」

「う、うん……今開けるね」


 小包からちゃんと三錠取り出して灯子は蓮夜に手渡す、それを口に運んで蓮夜は生ぬるい水と一緒に居に流し込んだ。

 飲み込んだ直後は味も何もわからないが、後味がすっきりして口の中に清涼感が広がる。


「飲みやすいようにハッカのオイルを足しといた。口の中が少しはマシになったろう?」

「ああ……」


 そのまま数分、蓮夜は大人しく壁にもたれかかり息を整えた。

 ゆっくりと生臭い潮の香りを吸い込むが……ハッカのおかげで大分軽減されている。


「う、む……だいぶ。よい」


 まだ視界がぐらぐらとしているが気持ち悪さが引っ込んで、しゃべる分には問題なくなってきた。

 その様子を見守っていた医者もうんうん、と頷いてお大事に。と手をひらひらと振りながら戻っていく。


「これで大丈夫かな灯子ちゃん」

「はい、お手数おかけしました」


 明らかに顔色が戻ってきた蓮夜に安堵の息を漏らして灯子が礼を言う。

 船員も仕事があるだろうにと申し訳ない気持ちも込めて。


「いいよいいよ、今回の航海は嵐もないし手が空いてたから甲板の掃除なんてしていたんだ。それに客なんて滅多に乗せない船長の友人なんだろう? 何かあったら誰でも良いから言ってくれ、じゃあな爺さん」

「うむ、礼を言う……本当に助かった」

「薬を持ってきただけなんだけどなぁ、ま、いいよ。まだまだ先は長いんだ少し部屋で休むと良い」

「そうじゃな、横になりたい……」


 大分楽になったとはいえ、少しでも気を抜くとふらりともつれる足に不安しかない蓮夜は大人しく船室に戻ろうと灯子に肩を借りながら歩き始める。

 

「良い孫じゃないか、大事にな」


 そんな二人を笑いながら船員はまだモップをかけていない前面側の甲板へと向かっていった。


「孫ねぇ……そう見えるわよねやっぱり」

「灯子……足を止めないでくれるか……やはりまだ気持ち、うっぷ!」

「きゃあ!? ちょっと! すぐ行くから耐えてぇ!! この外套大事なんだから!!」


 その後何とか部屋までたどり着いた蓮夜は昼過ぎまでベッドで休んで回復、灯子は甲斐甲斐しくその面倒を見ていたのであった。



 ――医務室



「ヤレヤレ……空と地を駆ける侍も海の上では打ち上げられた魚と一緒だねぇ」


 からん、とグラスで揺らぐラム酒に浮かべた氷が涼やかな音を立てる。

 上等な樫の安楽椅子に身を任せながら女医はへらへらと酒を口に運んだ。


「まあ、だからこそアタシが護衛って訳だし……偶にはのんびり酒でも飲もうじゃないか」


 足裏で軽く床を蹴り、ギコギコと椅子を揺らしながら……片手にグラス。片手に小さなダガーナイフを遊ばせて……。


「よっと」


 ――ひゅん! 

 ――ストン!


 軽く放られたナイフは壁の写真を貫通し、医務室の壁に留まる。


「あの童貞野郎を始末した後はすぐ帰るはずだったのに命令を待てなんて言うから、ずいぶん大事かねぇと思ったが……粋な計らいじゃないさね」


 その写真はとある新聞から切り抜かれたとある外交官の顔写真、すでに何回か貫かれててボロボロだが……その小さな写真の下には『DT・ホウ』と書かれていた。


「楽しみさね、斬鬼……アタシの葬送リストに名前が載らない内は丁重にもてなしてあげるさ。くっくっく……」


 ご機嫌な様子でまだ半分以上グラスに残るラム酒を胃に流し込む。

 独特な甘い香りと焼けるようなアルコールの感触を楽しんで……アメリカの特務機関『FBI』のエージェントであるアンダーテイカーは白衣に身を包み短い休暇を楽しむのだった。


 まさかその夜に本当に護衛として動かざるを得ない事になるとは露知らずに。


「経費で飲む酒はうまいさね」


 後で酒瓶二つを空にしたことを後悔する事にもなる。

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