20:幻陽社の噂話
「では、行ってきます」
流石に飯ぐらい食ってけ、と翁から握り飯を押し付けられ胃に収めた後。蓮夜はまるで買い物にでも行くような気軽さで空を仰ぐ。
「おう、戻ってきたら家の事で話がある。忘れんなよ」
「わかりました」
「じゃあ行ってこい」
カツッ!! カツッ!!
翁は火打ち石を鳴らし、笑った。
それは月夜連時代……出撃の際に必ず行われる儀式のような物、それに懐かしさを抱きながらも蓮夜は新鮮な気持ちを抱く。
それは……
「陽の高い時に送り出されるのは……初めてですな。では」
初めて、日向に送り出されたかのような気分だったから。
かしゃん! と音を鳴らしながら蓮夜は跳躍して屋根から屋根へ……瞬く間に消えていく。その音を心地よく受け止めた翁に、みっともなくバタバタとした足音が幾つか近寄ってきた。その音の正体、それはぼさぼさ頭の青年と数人の仲居たちである。
「ああくそ! 間に合わなかった!! 蓮夜!!」
「蓮夜様!! お戻りくださいませ!!」
すでに米粒みたいに小さくなった蓮夜の背に必死で声を掛ける幻陽社のナナシ、そして月夜連御用達の宿の仲居。
その言葉に反応し、翁は振り返り声を掛ける。
「何だ坊主と嬢ちゃん、アイツの知り合いか?」
ふてぶてしくキセルに入れる火種を手のひらの上で転がす翁にナナシたちは眉根を寄せて近づいてきた。
「え? ああ、知り合いっつーか顔見知りっつーか」
いきなり話しかけられたナナシは黒い布で目を覆う翁の風貌に戸惑いつつも、当たり障りのない答えを返す。その声色に翁は少し考えた後、確信を得るために言葉をつづけた。
「そうか……それはアイツが元月夜連の斬鬼と知った上でか?」
「……爺さん、それは」
キセルに開いている手で懐から出した煙草の葉を詰めて、火種を入れふかす翁をナナシは眉根を寄せて言葉を濁す。その様子に月夜連、もしくは幻陽社の関係者と辺りを付けた翁は先ほどとは打って変わって明るい声でナナシたちに話しかけた。
「心配すんな、俺は元々月夜連のもんだ……あの寒天頭とは長い付き合いでな。見た事ねぇか? 俺の事」
そう言われてもナナシには翁の姿に見覚えなどない。
同じように後ろにいる仲居二人もお互いに顔を見合わせて、記憶を探っているようだった。唸る三人の声にため息を一つはいて翁は蓮夜の行く先について告げる。
「まあ、大分昔に離れたからよ。わけぇ連中は知らねぇだろう……で? アイツ止めに来たってんだったら無駄だぞ? 暴れて来いって太鼓判押してやったからアメリカ大使館が更地になるまでとまりゃしねぇよ……月夜連全員で掛かって止まるかどうかだからなぁ」
「くそっ……後始末にどんだけ苦労すると思ってやがんだ……下手すりゃ戦争になったっておかしくねぇのに!!」
「後始末って……月夜連はもうねぇから、お前幻陽社の人間か?」
「おう、東京七区四番官のナナシだ……そっちは?」
「俺か? 月夜連の創設ん時からいる骨董品の爺さ。開発部の頭を張ってたこともある……幻陽社の糞婆の喧嘩仲間だ」
懐かしいもんだ。とキセルから煙の輪っかを浮かべながら快活に笑う翁。しかしナナシは婆と言われても全然想像がつかず仲居を振り返る。
すると一人の仲居が……口に手を当て目を丸くしていた。
「まさか、翁様でございますか? 十七年前に視力を失い月夜連を去ったという……月夜連の専用武装を作られていた」
「おうおうおう! 一人くらい覚えてくれてると気分が良いぜ。その翁で間違いねぇ、可愛い声のお嬢さん」
「ナナシ、この方とんでもなく偉い方ですよ?」
「……なんでそんなのがここに」
「あの寒天頭がお通夜みてぇにしょぼくれてやがったからよ、発破かけといたぜ。明日にゃ闇狩りも残らず大人しくなるだろうよ、ああ、良い事した」
……なんですと? と翁の言葉にナナシの表情が引きつり、青ざめ、こめかみには今にも破裂しかけそうなほど血管が盛り上がる。
落ち込んでいて弱気な蓮夜ならもしかしたら言葉で止まると思って、そんな一縷の望みをかけて追いかけてきたのに……よりによって発破をかけたというこの目の前の老人。
「後は捕まった連中を迎えに行かなきゃな。おい、嬢ちゃん。ちょいと頼まれてくれねぇか? 後は酒と……」
「まて、この爺。何してくれてんだお前ぇぇ!!」
「あ? なんだこの小僧。生意気じゃねぇか、聞いてりゃ分かるだろう? 酒とケンカは江戸の華だ、いっちょ派手にだな」
「今は東京だこの爺!! そんなことしたら普通に警察に捕まる時代なんだよ!!」
「だから何だってんだい、警察が怖くて喧嘩ができるか馬鹿野郎!!」
「もっと穏便にするために俺が努力してんだよ!!」
「勝手に苦労してやがれ、俺は行くぜ。かっかっか!」
そんな周りの迷惑を顧みない、噛み合わない口論に近所の家から顔を覗かせる住人たちが恐る恐る通りに集まってきた。
そんな中にはもちろん女将に世話になってここに住み着いた者、この辺の住宅を手掛けた職人も多く住んでおり……翁の良く通る声はもちろん耳に届いている。
「爺さん、俺のせがれは……大使館にいるのか?」
女将に頼まれ座布団を蓮夜の家に運んだ息子を連れていかれた男が。
「女将さんを連れてった連中を懲らしめに行ったのかい? あの背の高いお侍さん」
女将に格安で家を紹介してもらった一人暮らしのおばさんが。
「おう、派手に暴れてくるって言ってやがるから。迎え位はやってやろうと思ってな! 来たい奴はきやがれ! 祭りみてぇなもんだ!」
ざわめく住民たちの波は伝播して、広がる。
翁が法被の片側を脱いで、のしのしと進んでいくその後に……一人、また一人と連なっていく。
そこまで来るとナナシも言葉を紡ぐ雰囲気では無くなり……翁が笑うたびに人が増え、物干し竿を担ぐ者、大きな洗濯板を手に下げる者、老若男女関わらず……神田町が動き始めたのだった。
「さすが、先代様の喧嘩仲間……ですね」
幻陽社には噂がある。
今では嘘か本当か、真偽を知る者も少なくなりさらにその噂話を知っている者すら少なくなりつつあるが……仲居の一人は先輩から聞いた事があった。
『昔、先代が若かったころ……月夜連の一人と町を二分にした大喧嘩を三日三晩やって。とうとう決着がつかず終いには祭り騒ぎとして生まれたのが今の八王子祭りだよ』
最初は二人の喧嘩が何故か不思議と人が増えていき双方の暗部ですら、取っ組み合いの喧嘩を訳も分からず延々とする羽目になったと。
聞いた当時は、まさかと笑いながら聞いていた彼女だが……今、その噂が時を経て現実になりそうな瞬間を目の当たりにしていたりする。
「おれ、クビになるかも」
もはやナナシ一人の手には負えない流れに、不憫な担当官はがっくりと膝をつき……さめざめと泣くのだった。そんな姿に仲居が、もう一つの噂話を思い出す。
『歴代ナナシは例外無く、胃薬を持ち歩く』
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