化物落ツバキ
よろず
第1章 牛と少女と男二人
第1話 落ちツバキ
白と黒、二色の布に覆われた一軒の古い家。
故人を送る線香の香りが漂う庭には、一本の大きなツバキの木があった。
屋根の上にまで枝葉を伸ばしたツバキの木。濃緑の葉を埋めるように彩るのは、たくさんの赤い花。地面には落ちツバキの絨毯が広がっている。
「この家、売られるんだって」
ツバキの木の根元には古ぼけた、両の手に乗りそうなほどの小さな社が一つ。
「木も、伐られちゃうのかな」
真っ赤な花の絨毯の上には、紺色のセーラー服を纏った少女が一人、力無く座り込んでいた。
膝丈のプリーツスカートが地面に広がり、その裾からは白いふくらはぎが覗いている。彼女の胸元を彩るのは臙脂のタイ。
「居場所、なくなっちゃった」
はらり、少女の頬を涙が伝った。
「さみしい。嫌だ。……置いていくなら、どうか私を」
哀れなほどに震える肩。両手で顔を覆い、少女は懇願する。
俯いた彼女の顔を、長い黒髪が覆い隠した。
「たべて」
少女を包むのは線香の香り。
大きなツバキの木の下。地面を覆うのは美しくも禍々しい、血のような赤――――。
***
様々な音のする駅前広場。駅から出てきた人。駅へと向かう人。誰もが目的地へ向かい足早に通り過ぎていく。
ここは渋谷駅南口。
凛々しい顔付きのモヤイ像の前の柵では、大きなスーツケースを膝の間に挟んで座る少女が、行き交う人々を眺めていた。
「ほれ椿、声掛けんかい。合言葉は、勇気やで!」
「勇気……」
若いが老成しているような、不思議な声色の男の言葉に頷いた少女は、拳を握った。
だけれど少女の視線は頼りなさげに彷徨っており、それに気が付いたらしき男の声は不満そうに、大きな溜息を吐き出す。
「そないなままじゃ、いつまで経っても野宿やで? 若い
感情豊かな怪しい関西弁。ペラペラしゃべる男の声に、少女は冷静な声音で告げる。
「警察で、補導だよ。……ねぇ。その話し方、まだやるの?」
見下ろすようにして少女が視線を向けた先には、黒いぬいぐるみ。スーツケースの上にちょこんと座らされているそれは、二頭身で可愛らしくデフォルメされた黒毛の牛で、頭には小さな白い角が二本生えている。
黒い毛に覆われた顔には、柘榴の果肉のような赤が二つ、煌めいた。
「おぅ。キャラの路線変更いうやつや! 折角こぉんなかわいらしい姿になったからな。元気いっぱいキャラになるねん」
「疲れない?」
「平気や。なんや、この関西弁っちゅうのんは話してるとオモロなってくる」
「聞いてるのも、楽しいよ」
「ほぉか! そんならワイは椿のために頑張るでぇ。せやから、椿も頑張れ!」
「うん。頑張る」
「すんませぇん! どなたかご親切な方、こっち向いてくれませんかねぇ? 止まって話、聞いてってぇ!」
牛のぬいぐるみは話しながらスーツケースの上で立ち上がり、短い手足を大きく動かして飛び跳ね始める。
動いている上に胡散臭い関西弁でしゃべる奇妙なぬいぐるみ。声もかなり大きいというのに、行き交う人々は誰も、ぬいぐるみの存在を気にもとめない。
「声、誰も聞こえないみたいだね」
元気に跳ねていた黒毛牛のぬいぐるみを両手でそっと抱き上げ、少女は立ち上がる。
「せやなぁ。ま、現代人っちゅうのは感度がわるぅなっとるからのぉ。はっきり見える椿が珍しいんや」
たしたしと短い右手が少女の腕を叩いた。そのまま少女の体をよじ登り、彼女の頭のてっぺんで、牛のぬいぐるみは、だらんと脱力する。
「しかしなぁ、東京の人間っちゅうんは何をこんなにせかせかしとんのかのぉ? ちこーっと話聞いてくれてもええやんな?」
「みんな忙しそう」
「何がそないに忙しいっちゅうねん。椿が頑張って声掛けても無視しよるし。なぁ?」
「んー……私の声、小さいのかなぁ?」
「そぉかもしれん。腹から声出してみたらどうや?」
「お腹から?」
「そや! こぉやって」
ぬいぐるみは少女の頭の上ですっくと立ち上がる。蹄の両手を口の横に当て、大きく息を吸い込んだ。
「えろうすんません! どなたか話、聞いてぇな! この子助けたってぇ!」
響き渡る声に気付かず、通り過ぎる人々。ぬいぐるみと少女にとってそれは当然の光景で、だけれどその当然は、唐突に崩れた。
「え? あの……?」
少女の前で男が一人、足を止めたのだ。
見上げるほどに背が高いその男は明らかにぬいぐるみの呼び掛けで立ち止まり、呆然としている少女に目を向け、彼女の頭の上で仁王立ちしているぬいぐるみを瞳に映した。
動く黒毛牛のぬいぐるみを認識して、眠そうだった男の垂れ目が見開かれる。
「目がおぅたな?」
ニヤリ、ぬいぐるみが笑った。
「椿! 確保や! こいつに決めたぁっ」
「え? わぁっ! うし様、待って!」
少女の頭の上から跳躍したぬいぐるみが男に飛び掛かる。
長身で大柄なその男は、驚いた様子で勢い良くぬいぐるみを叩き落とそうとしたのだが、焦った少女がその腕に飛び付いたせいで、動きを止めざるを得なくなった。
「ごめ、ごめんなさいっ、お話しを……えと、えとあの! 私の飼い主になってくださいっ!」
ぬいぐるみのアドバイスを実践したのか、腹から出された少女の声が、辺りに響き渡る。
男は固まり、周りを通り過ぎる人々も歩く速度を落として少女と男へ目を向けた。
人々の視線に晒された男は青くなり、少女は赤くなる。
黒い牛は緩いウェーブのかかった男の髪を引っ張りながらよじ登り、男の頭に取りついた。
「…………牛の?」
やっとのことで発された男の声は、感情が見えない低音で。彼は、少女に抱き付かれていないほうの手を伸ばし、頭の上の柔らかな牛を鷲掴む。
「ら、乱暴しないでっ」
慌てた少女は右手で男の腕に張り付いたまま、ぶら下げられた牛へと左手を伸ばした。
じたばた暴れていた牛が手の中へと返され、少女は、ほっと息を吐く。
「うし様も一緒ですけど、私を飼って下さい! 何でもします! お望みでしたら体も好きに――」
昼日中、人通りの多い場所で大きな声ですべきではない発言をした少女の口を、男の手が覆って言葉をせき止めた。
「とりあえず話は聞く。だから……勘弁しろ」
渋谷警察署がすぐそばにある場所だ。警察を呼ばれたらたまらないと、男はうんざりした声音で告げた。
そんな男の心の声に気付かない少女は、動いてしゃべるぬいぐるみを片腕に抱えたまま、こくこくと首を動かして素直に頷いたのだった。
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