幼い記憶

 不意に吹いた強い風で窓枠がガタガタと音を立て、赤ずきんは目を覚ました。

 時間は、太陽が空に登る準備をし始める頃。

 起きるには早過ぎる時間だったが少年は起き上がり、寝ぼけ眼で狭い自室を見回した。

 ……オオカミの姿は無い。


 昨日からツルギが夜中に外出しているのは薄々気が付いていたが、どこに行っているのかまでは分からない。

 このところ様子がおかしかった原因も、そこにあるのかもしれない。


 赤ずきんがオオカミの銀色を探しながら窓の外を見ていると、一本の木の横に立つ黒い柱がふと目に留まった。

 その瞬間、残っていた眠気は完全に吹き飛び、全身に冷たい緊張が走った。

 視線の先に立っているそれは柱ではなく、例の黒い男だった。


 少年は靴を履き、壁に掛けてある頭巾を引っ掴んで羽織り、窓から外へ出た。

 黒い男は赤ずきんの方を向いたまま、いつものように不気味に微笑んでいる。

 赤ずきんは男の方へと歩み寄った。

 近付くほどに右手の指輪が固く冷たくなっていくのを感じる。

 お互い手を伸ばせば触れられそうな距離まで近付いても、男は消える事なくその場に留まっている。

 赤ずきんが何か言おうとした瞬間、男はゆっくりと背を向けて歩き出した。

「おい…!」

 呼び止めようとする赤ずきんの声に一度だけ振り返るも、男は歩いて行ってしまう。

 いつもならすぐに消えてしまうあの男が歩いている。

 まるでついて来るよう促すように。

 赤ずきんは迷わず後を追った。


 しばらく歩くと森に至った。

 今では当然の如く見張り番は居らず、そこにあるのは湿った闇と木々のざわめきだけ。

 前を行く男は立ち止まる事なく森の中へと進み、赤ずきんもそれに続いた。

 まだ立ち入ったことのない未知の領域を進むと、水の落ちる音が聞こえてきた。

 闇に染まった木々の間から鈍く赤い光が漏れる場所まで来ると男は立ち止まり、不気味な微笑を赤ずきんに向けて幻のように消え去った。

 男の目的地に到着したことを悟った赤ずきんは唾を飲んで笑みを浮かべ、目の前の赤く水の音がする方へ足を踏み入れた。


 まず目に付いたのは血溜まりだった。

 のぼり始めた朝日を反射して真っ赤な光を放つ滝と、生臭い死の匂いが少年を迎え入れる。 

 辺りに飛び散っているのは、おびただしい数の獣の毛皮と骨の飛び出した肉塊。

 赤ずきんはそれらがオオカミの死骸であることを確認すると、近くに潜んでいるであろう恐ろしい化け物を想像し、さらに口角を釣り上げた。


 奥にある激しく水を落とし続ける滝の方へ目を遣ると、岩の上で赤黒いまだら模様をした何かが背を向けているのが見えた。

 周りで死んでいるオオカミと大差無い大きさの【それ】は、静かに何かを咀嚼している。

「ツルギ…?」

 赤ずきんが名前を呼ぶと、血塗れの白いオオカミとおぼしき亡骸の喉元を咥えた【それ】がゆっくりと振り返った。

 呆然とした金色の瞳が赤い頭巾の少年を捉える。

 返り血で染まった銀色のオオカミは赤ずきんを見つめ、力無く吠えた。




 ***




 殺意に満ちたオオカミ達が飛びかかってきたあの瞬間。

 深く吸い込んだ夜の空気が腹の中で冷たく鋭い風となり、ツルギの口から放出された。

 風にぶつかったオオカミ達はたちまち身体を切り裂かれ、血を流し吹き飛んだ。

 正面から風を受けて滝に落ちた白狼は、水に流される自身の血液に死を感じながら、辛うじて視界に映る銀色のオオカミに、かつての英雄の姿を見た。


 全てを切り裂き、薙ぎ払う風。

 気が付けばオオカミ達は倒れ、ツルギはその血肉を貪っていた。

 目の前の凄惨な光景と口の中に広がり喉に流れ込む残酷が、亡くしていたあの日の記憶を呼び起こす。




 ***




 七年前。

 銀狼と呼ばれるツルギの父親は、強く逞しいオオカミの長だった。

 銀狼は全てのオオカミの憧れであり、他の動物達は彼を畏れた。


 木々の葉も色付くとある日。

 まだ幼かったツルギはこっそりと銀狼の背中を追い、狩りの様子を見物しようとしていた。

 険しい崖を進む父親の後を必死で追っていた仔オオカミだったが、木の根に脚を引っ掛けて転んだ拍子に崖下まで転がり落ちてしまった。


 痛みと世界が回転し、地面に叩きつけられた銀狼の子。

 助けを求めてか細い声で鳴くも、その思いは側にある木々のざわめきで掻き消される。

 冷たい秋風に晒され、痛みと恐怖に震える仔オオカミに何かの足音が近付いて来た。

 立ち上がろうにも脚に鋭い痛みが走り、その場でもがくことしかできない。

 獣にしては脚の数の少ないその奇妙な足音は不意に速度を上げ、すぐ側で止まった。

「死んでるの…?」

 聴いたこともない鳴き声を放つその生き物は、微かに震える小さな獣の頭を撫でた。

 額に感じるその温かさにオオカミの仔は恐怖で閉じていた眼を恐る恐る開き、生まれて初めて人間という生物を目の当たりにした。


 これが少年とオオカミの出会いだった。

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