銀狼の死
学校に向かう赤ずきん達の背中を見送りながら、ツルギは絶望していた。
数日前、森で出会った時と比べて、自分に油断し切っている今の赤ずきんを殺すのは
しかし、今のツルギにとって赤ずきんの死は、自分の死と同等だった。
赤ずきんが死ねば、この世界も死ぬような気さえする。
このまま赤ずきんを殺さなければ、全てのオオカミを敵に回すことになる。
愚かな自分を消すだけでなく、見せしめに自分と関わった人間全てを殺しに来るだろう。
オオカミ達に襲われ、殺される白雪や赤ずきんの母親を想像し、ツルギは激しく首を振った。
ああ、全部オレのせいだ。
オレはオオカミにも飼い犬にもなりきれない存在だ。
オレは一体どうしたらいい…?
空腹も忘れて悩んでいる間に日が暮れた。
とうとう期限の晩が来る。
日中無意識のうちにうろうろと家の周りを歩き回った末、ツルギはベッドの下に戻って来ていた。
不意に荒々しく部屋の扉を開ける音が聞こえ、赤ずきんが無愛想な顔で覗き込んできた。
オオカミの存在と昨日から変わらぬ様子を確認すると、赤ずきんはベッドの下に何かを突っ込んだ。
ツルギの目の前に置かれたそれは、皿に乗った大きくて分厚い肉だった。
何かが振りかけてあるその表面は、ベッドの下に差し込む僅かな光を受けてキラキラとしている。
ツルギは目を丸くし、今日初めてしっかりと赤ずきんの顔を見た。
「食え」
考えることに疲れていたオオカミは、言われるがまま目の前の美しい不思議な肉を口にした。
その瞬間、忘れていた空腹が一気に蘇り、いつも以上に夢中でがっついた。
これほど美味い肉など、食べたことがなかった。
分厚い辞書のようなサイズの肉をあっという間に平らげ、空っぽだった腹が満たされたオオカミは、側で見守る赤ずきんの顔を再び見つめた。
「食欲はあんのかよ…」
呆れた顔でそう言うと、赤ずきんは綺麗になった皿を回収した。
その皿を追うようにベッドの下から這い出て来たオオカミは、主人の顔をただただ見つめ続けた。
「もう無ぇって。今度また白雪に作ってもらえよ」
おかわりを要求されていると思った赤ずきんは、足元で自分を見上げるオオカミの顔を押し除け、皿を持って部屋を出て行った。
今食べた美味い肉は、白雪が作ったものらしい。
赤ずきんの背中が消えていった扉を見つめるオオカミの中で、温かい炎が燃えたぎっていた。
世界を静かな闇が包み込み、夜更かしな問題児も寝静まる頃。
ツルギはベッドの上に立ち、寝息を立てる主人の幼い寝顔を見ていた。
普段は乱暴で心臓に悪い悪事を繰り返す悪魔のようなこの人間の子供も、眠っていれば天使と
オオカミはそっと少年の頬に自分の額を当て、しばらく目を閉じた。
《ありがとう》
人間には聞こえない声でそう呟くと、ツルギは目を開け、開けっ放しの窓から部屋の外へと飛び出した。
草の成長し切った地面に降り立ち、一度だけ小さな家を振り返る。
赤ずきんが起きて追って来ないことを確認し、本来の居場所へと駆け出した。
粘つく黒い雲は晴れ、月が鋭い光を放ち、オオカミの進む道を照らす。
本格的な夏の始まりを告げる生ぬるい風を切り裂き、やがて森へと至る。
草木を跳ね除け、小石を蹴散らし、月の光が届かぬ森の中を突き進む。
目前に迫る滝の音。
オオカミは最後の舞台へと飛び込んだ。
月光の滝には既にオオカミ達が集まっており、愚かな銀狼の子の帰還を待っていた。
ツルギが谷に到着すると、茶色いオオカミが嫌らしく笑った。
「おいおい、子供ひとり殺すのにえらく時間がかかったなぁ…?」
自分を馬鹿にするいつもの悪意を受け流し、ツルギは下を向いたまま、奥にいる白狼の前まで進んだ。
「赤い悪魔は殺して来たか?」
大きな黒々とした岩の上に座る白狼が、眼下に立つツルギに訊ねる。
「いいえ」
ツルギの返答に、オオカミ達は
「何故だ」
白狼の重く冷たい問いにツルギは顔を上げ、オオカミの長の潰れた金色の瞳を決意に満ちた真っ直ぐな眼でしっかりと見据えた。
これまでとは違う銀狼の子の凛とした態度に、唸っていた周りのオオカミ達は驚き静まり返った。
今のツルギに怯えは無かった。
「オレはもう、オオカミじゃない。
ツルギの答えに目を見開いた白狼は怒りで打ち震え、
「ならば此処で死ぬが良い…!!」
白狼の咆哮で積年の殺意を解き放った周りのオオカミ達が、一斉に裏切り者に飛び掛かる。
迫るオオカミ達の怒り狂った唸り声に動くこともせず、ツルギは目を閉じ深く息を吸い込んで、心の中で仲間達に【サヨナラ】を告げた。
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