第6章 銀狼の記憶

二つの消失

 黒くぼやけた世界の中で、よく知った声がこだまする。


「このコは間違いなく、この世界の重要なピースよ…!」


 顔をしかめ、首を振り、その内容を振り払おうとするも、また別の声がそれを肯定する。


「君達は一人として欠けてはいけない」


 欠けたらどうなる?

 その【重要なピース】は、自分にとって邪魔でしかない。


「ダメよ、アリスくん。このコを殺すのは。このコは大事な鍵なのよ」


 頼みすがるような猫の声が脳内に溶け込み、不機嫌なままアリスは眼を開けた。

 青白い病室の天井を睨み、冷たい息を吐く。

 赤ずきんから聞いていた通り、自室で倒れているところを家族に発見され、病院に連れて来られたようだ。


 医者からはもう二、三日入院するよう促されたが、アリスは断り、無理矢理退院した。

 機嫌はすこぶる悪かったが、体調に問題は無かった。

 迎えに来た姉は看護婦達に頭を下げ、ひとりさっさと歩き出してしまった弟を慌てて追いかけた。

「何かあったの?」

 勘が鋭く優しい歳の離れた姉は、普段から笑わない不機嫌な弟の顔を心配そうに覗き込む。

「たまには姉さんを頼ってくれたって良いのよ?」

 アリスは首を横に振り、これ以上関わらせないための愛の無い嘘を吐いた。

「ただの寝不足だ」

 姉は一瞬立ち止まり、自分の知らない世界へと突き進むまだ幼い弟の背中を見つめた。

 今より幼い頃から、どんな本を読み聞かせても、興味を示さなかった弟。

 何に誘っても無表情で首を横に振り、立ち入りの許されない自室に篭ってしまう笑わない弟。

 そんな弟との距離は、近づくどころか、さらに離れていっているように思えた。




 家に帰ったアリスは、即座に自室内の確認をした。


《勝手に触られた箇所はないか…?》


 家族に対し普段から関わり難い態度をとることにより、自分の許可なく自室に入られたことはなかったが、「部屋に入るな」と言ってあるわけでもなかった。

 今回自分がこの部屋で意識を失ったお陰で、誰かが此処に入ったことは確かだった。

 倒れた原因を探るために、部屋の中を荒らされていてもおかしくはない。

 しかし、中のものの配置からして、引き出し等を開けられた形跡もなく、見られていたとしても何の問題も無い机の上だけのようだった。


 アリスの部屋は、変わらないままだった。


 ……二つの消失を除いては。


 明日の登校に備えて通学鞄の中を確認していたアリスは、片腕を鞄の中に突っ込んだまま硬直した。

 冷静にもう一度 まさぐり、現実を受け止める。


 あの忌々しい女装王子を殺すために用意した、毒りんごが無くなっている。


 自分が気を失って二日程経っていた。

 あれは即効性だ。

 あのりんごを家族が持ち去ったのならば、既に何かしらの騒ぎが起きているだろう。

 姉の様子を見る限り、自分以外の家族に何かあったようにも思えない。


 ならば、りんごは何処に…?


 一瞬、気を失う直前に見た不気味な男の姿がよぎる。

 音も気配も無く平然と室内に現れ、静かに微笑んでいた男…。


 まさか、奴が…?


 アリスは引き出しの奥にしまった空の毒瓶を押し除け、二重になっている仕切りを取り外し、引き出しのさらに奥を確認した。

 この引き出しの構造は、自分以外が知るはずもない。

 しかしそこに隠してあった例の毒の書は、跡形もなく消えていた。


 確かにあの物騒な本は、誰かによって、意図的に置かれたもののように感じた。

 赤ずきんは、あの男が隠し部屋にも現れたと言った。


 あの本を隠し部屋に設置したのも、鞄の中からりんごを持ち去ったのも、あの男なのだとすれば…。

 自分は、あの男の思惑通りに毒りんごを製造させられたというのか…?


 次々と湧いて出る謎に満ちた恐怖と怒りに、アリスは口角をつり上げた。


 いいだろう。

 現状、どうせ白雪を殺すことはできない。

 自分達をどうしたいのかは分からないが、これ以上、奴の操り人形になってたまるものか。

 必ずあの男の正体を暴き出し、今後の状況次第ではあるが、白雪は確実に殺す。


 そう決意したアリスの背後には、黒い男が愛おしそうに微笑みながら立っていた。






 そして少年達は、さらなる消失を知ることとなる。

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