光の柱

 不気味にうごめく真っ黒な液体は、地下牢を染め上げた後、地上で広がり、ゆっくりと草原を進み、ハリボテの森まで侵攻していた。

 森の中で相変わらず無意味なお茶会を続ける帽子屋と三月ウサギは、周囲の異変に気付くことなく意味不明な歌と行動を繰り広げていたが、ハリボテの木が倒される音を聞いたヤマネが、いち早く黒い液体の接近に気付き、何も理解できぬまま難を逃れた。

 イカれた二人が悲鳴のような奇声をあげる中、テーブルも椅子も食器も全て黒い侵略者に飲み込まれ、液体が触れた箇所は全て黒く染まり、そこに何があるのか分からないほどになった。

 それはまるで、この世の全てを消し去るような黒だった。




 不思議の国全体を見ることのできるチェシャ猫が、黒い液体による現在の侵攻状況を伝えると、トランプ兵達は身震いし、♥︎の王の表情は一層厳しくなった。


 赤ずきんとアリスには、あの黒い液体に見覚えがあった。

 ……「見覚え」というよりは、「嗅ぎ覚え」だろうか。

 あの黒い液体は【始まりの逆】が纏っている黒い布と、同じ匂いを放っていた。

 そしてそれは、良い匂いとは言えないが、決して不安になるような匂いではなく、日常生活で嗅ぐ機会のある匂いだった。


 しかし、あの液体に対する恐怖は、【始まりの逆】のそれと似てはいるものの、もっと根本的なもののように思えた。


「アレはこの世の外から来たものよ。アレが発生した原因は、こっちの世界には無いわ」

 そう言ってチェシャ猫は、黄緑色の目で王の背後にある大きな地面の亀裂を睨んだ。

「これ以上詳しいことはわからないケド、【創造主】と【観賞者】の住まう世界で何かが起きてるコトは確かよ」


 ♥︎の王はチェシャ猫の話を聞き終えると、三人の少年達に向き直り、何かを決意した表情で語り始めた。

「私も詳しいことはわからないが、君達三人には特別な力を感じる。私や他の人物には無い影響力を感じるのだ」

「ここで起きた異変は、全部おれ等のせいだ、って言いたいのかよ?」

 ヘラヘラした態度で赤ずきんが口を挟む。

「違う」と王は首を振り、少年達に言い聞かせるように続けた。

「むしろ良い影響を与えていると言っていいだろう…。君達が行動する限り、この世界は動き続ける。君達が止まれば、この世界も止まるのだ。君達は一人として欠けてはいけない。理由はわからないが、私にはそう感じる」

 王の意見に同調するように、チェシャ猫と白ウサギが、少年達に頷いた。

「アタシも同意見よ。この世界の今後は、キミたち次第だと思うわ」

 王と猫による白雪の存在を必要とするかのような台詞に、赤ずきんは驚き、横目でアリスの反応を窺った。

 邪魔になる白雪を消したがっていたアリスは、やはり納得できない様子で、敵意のある冷たい視線を王に向けている。

 白雪はというと、まだ状況が掴みきれていないためか、不安げな表情で赤ずきんを見ていた。

 白雪と目が合った赤ずきんは、慌てて目を逸らし、オレンジ色とピンク色の混ざった不思議な空を見上げて平静を装った。

 白雪ともうしばらく一緒にいられるかもしれないという期待に、喜びが湧き上がり、腹が立つ。



 不意に谷底から吹き上げる風と光が強くなり、その場にいた全員が【次元の境界】に注目した。

 谷から突き出た何本もの光の柱が空を突き刺し、その大きくて太い柱一本一本に何かが映っているのが見える。

 強風に目を開けることもままならず、はっきりと見ることは出来なかったが、狭く薄暗い場所に散らばった大量の紙やペンが見えた気がした。


「なんだ、あれは…?」

 そう思った瞬間、意識が戻った。


 赤ずきんの視線の先には、見覚えのある木目調の天井と、巨大なオオカミの鼻先。

 その鼻先は嬉しそうにクンクンと音を鳴らし、舌を伸ばして顔を舐め始めた。

「ツルギ…?」

 赤ずきんが呻いて身を起こすと、現実世界に置いてきた愛剣と、ベッドの周りを囲むように座った七人の老婆達が見えた。

 側で小さな呻き声が聞こえ、すかさずツルギが走り寄ったすぐ側に目を向けると、白雪が目を擦りながら起き上がるところだった。

「僕達…、帰って来られたの…?」

 どうやら二人は、白雪の部屋で寝かされていたらしい。


「ああ、良かった…!」

 頬の赤いふくよかな老婆が、胸を撫で下ろした。

「目覚めなかったらどうしようかと思ったよ」

 すきっ歯の老婆が、やれやれと溜息を吐く。


 ここに来た目的を思い出した赤ずきんが自分の脹脛ふくらはぎを確認すると、傷口は嘘のように塞がり、何の跡も残っていなかった。

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