黒い液体

 白雪は【始まりの逆】と関係している。

 アリスはそう睨んでいた。

 今回の件といい、赤ずきんが隠し部屋から教室へ移動させられた件といい、あの男が自分達を白雪と共に行動させようとしているように思えた。

 白雪自身の本当の目的は分からないが、【始まりの逆】を危険と見做みなすなら、白雪を側に置くのは避けた方がいいだろう。


「…で、これからどうするんだよ?」

 後ろを向いたままの赤ずきんが、壁伝いに天井を見上げながら言った。

 牢内に灯りは灯ったものの、天井に空いた穴は未だ尚暗い。

「王様に会いに行きましょ。アリスきゅん救出完了の報告をしなくちゃ」

 肩の上に戻ったチェシャ猫が、機嫌の悪いアリスにウインクした。

 アリスは、このままこの檻の中に白雪を閉じ込めておく事も考えていたが、チェシャ猫の【白雪はこの世界の重要なピースである】という発言も気になった。


 檻の外に出るため、アリスが上着の内ポケットから身体を縮める薬品を取り出そうとした瞬間、白ウサギが消え入りそうな短い悲鳴と共に身体をビクつかせ、天井を凝視した。

 それと同時に、赤ずきんの指輪が氷のように冷たくなり、ガタガタと震え出した。

「どうした」

 アリスが声をかけるも、メイドのウサギは大きな眼を見開き、天井を見つめたまま硬直している。

 全員が警戒して天井を見上げると、例の穴から何かが擦れるような微かな音がして、黒い液体がゆっくりと流れ出て来た。

 黒い不透明な液体は、石畳の床に着地すると、斜面になっているわけでもないのに、赤ずきんを目指して進み始めた。

「なんだこれ!?」

 足元まで迫って来た黒い液体を避けながら、赤ずきんが叫んだ。

「分からん。とにかく触るな」

 アリスはゆっくりと蠢く不気味な液体に注意を払いながら薬品の入った小瓶を取り出し、赤ずきんに投げ付けた。

「さっさと出るぞ」

 白雪もアリスから乱暴に小瓶を押し付けられ、首を傾げた。

「アリスくん、これは…?」

「いいからさっさと飲め」

 そう冷たく言い放って、アリスは小瓶の中身をあおった。

 赤ずきんが小瓶の薬品を飲んでいるのを見て、白雪も恐る恐る飲み干した。

 飲んだそばから身体が縮み、見ていた世界が大きくなった。


 白雪が薬品の効果に驚いている暇もなく、黒い液体は次から次へと穴から垂れ落ちて、津波のように押し寄せて来る。

 小さくなった三人をチェシャ猫は尻尾で素早く拾い上げ、自分の背中に乗せた。

「さ、行くわよ!」

 小さな少年達を乗せたド派手な猫は檻の外へと駆け出し、慌てて後から白ウサギも続く。


 乾いた石畳の通路を駆け抜け、地下牢の出口へと急ぐ。

 後ろから追って来る黒い液体は、量と速度を増し、白ウサギを捕らえようとしていた。

 間一髪のところで尻尾で白ウサギを持ち上げ、自分の背の空いた部分に乗せると、チェシャ猫は声を張り上げた。

「飛ばすわよ!!!しっかり捕まってて!!!」

 スピードを上げたド派手な猫は、一瞬で黒い液体を引き離し、地下牢の外に出た。

 明るい地上は平和そのものだったが、あの黒い液体を見た全員が【取り返しのつかない恐怖】を感じていた。



 ***



 白い光と鋭い風を放つ大きく千切れた地面を見渡し、♥︎の王は暗い表情で溜め息を吐いた。

 この谷底は、別の次元へと繋がっている。

 この【次元の境界】という名の世界の裂け目は、時折耳障りな音を立てて広がる。

 辺りの景色も、くしゃくしゃと歪んでしまっている。

 このまま裂け目が広がり続ければ、やがて世界はバラバラになってしまうだろう。


 不意にトランプ兵達がざわめき、そのうちの一人が声を上げた。

「王様!公爵夫人の猫が帰還いたしました!」

 王が振り返ると、チカチカと点滅する赤色の巨大な猫が目の前に降り立った。

「アリスきゅん、救出完了☆」

 猫はそう言うと、尾に持っていた鍵の束を王に向かって投げ、ポンと身を縮めた。

 猫の背に乗っていた乗組員達は地面に着地し、ここに初めて訪れた白雪は王の背後にある光り輝く巨大な谷を、不思議そうに眺めた。

「ご苦労だった」

 王は猫から受け取った鍵の束を懐にしまい、アリスに対し、暗い顔のまま頷いた。

「アリスよ、災難であったな」

 王がアリスの横に立つ白雪に気付き視線を向けると、美しい王子は行儀良くお辞儀をした。

「お初に御目にかかります。白雪と申します」

 初めて見る白雪の一国の王子らしい態度に、赤ずきんは目を見開いた。

 ♥︎の王は目の前に立つ三人の少年の顔を順々に見て、驚いたような顔で頷いた。

「そうか…、ついに揃ったのだな」

 王がそう呟くと、三人の少年達はそれぞれ首を傾げた。

 アリスの足元に座ったチェシャ猫も、目を閉じて満足そうに頷く。

「ええ。…でも、問題が一つあるわ」

 閉じていた目を開き、低く冷たい声で猫は続ける。

「外から来た黒い液体が、この世界を侵食し始めてる」

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