猫駆ける
不思議の国は、相変わらずめちゃくちゃである。
チェシャ猫のサイズといい、公爵夫人の家のサイズといい、全てが赤ずきんよりも大きいかと思えば、次の瞬間、チェシャ猫だけが大きな世界が広がったりする。
怪獣サイズのド派手な猫は、雑草を踏み付けるかのように、ハリボテの木を薙ぎ倒して進み、狂ったティーパーティの席を蹴散らし吹っ飛ばし、見覚えのある小さな可愛らしい家に直行した。
徐々に大きくなる地響きに驚いて窓から外を見た白ウサギは、迫り来る巨大なチェシャ猫を見て悲鳴を上げた。
チェシャ猫は、白ウサギの家を踏み潰す寸前の所で止まり、室内で震えるウサギに呼びかけた。
「出番よ、メイドさん!一緒に来てちょーだいっ!」
恐る恐る窓から覗いたメイドは、巨大な猫の背に乗った赤ずきんを見て、再び驚いた。
「アリス様の御友人の方…?」
直立した長い耳を前方に向け、大きな眼を激しく瞬かせながら、ビクつく白ウサギは玄関から外へ出た。
「何かあったのですか…?私に出来ることがありますでしょうか…?」
チェシャは震える声で訊ねる白ウサギをひょいと口で咥え、自分の背中に投げた。
宙を舞う小さなメイドは「きゃあ」と叫び、赤ずきんの腕の中に着地した。
「事情は、そこの頭巾きゅんから聞いてちょーだい!」
チェシャはそう言って、再び走り出した。
猫の背から落ちないよう、赤ずきんの腕にしがみ付き、白ウサギは涙ぐんだ大きな眼で、アリスの友人を見上げた。
赤ずきんは、自分の腕の中で弱々しく震えるウサギを見ながら眉間に皺を寄せ、首を傾げた。
《こんなヤツに、何ができるって言うんだ…?》
赤ずきんが何も説明してくれないので、白ウサギは顔を伏せて訊ねた。
「いったい…、何があったというのですか…?」
伏せた目の先に、例の妖しい指輪が見えたので、白ウサギはより一層身震いした。
「アリスが地下牢に捕まってるんだとよ!」
ヘラヘラした声で放たれた衝撃的な答えに、白ウサギが言葉を失うと、アリスの凶悪な友人はニヤついた。
巨大でド派手な猫の背に揺られ、しばらく進むと、前方に白い壁が広がっているのが見えた。
時折、鋭い風が頬を斬りつける。
近付くにつれ、前方にあるのは壁ではなく、裂けた地面から射し込む白い光であることが分かった。
それは、以前よりも大きくなった【次元の境界】だった。
チェシャはスピードを上げて光に向かって突進し、大きく割れた地面を飛び越え、白い光と鋭い風の壁を貫き、門のみが存在する無防備な城の石畳に、音も無く着地した。
トランプの兵達が、突然の来訪者に驚き、一斉に振り向く。
♥︎の王は、すぐ側に降り立った巨大な猫を見上げ、眼を見開いた。
「公爵夫人の猫よ、一体何事か…?」
意図せず王を見下ろす位置に来てしまったメイドのウサギはまごつき、赤ずきんは王や兵達の
「アリスきゅんが、地下牢に幽閉されているのはご存知?」
チェシャは立てた尻尾を左右に大きく振りながら、少し怒ったような声色で王に訊ねた。
「いや…」と、王は首を横に振る。
「あの檻は、【始まりの逆】が逃亡して以来、空になっているはずだ。私は誰にも投獄の命は出していない。その上、投獄好きな妻も、今は居らぬ」
トランプの兵達は、不安そうな声を上げた。
「んじゃ、アリスきゅんを解放しちゃっていいのよね?」
そう言ってチェシャは、長い尻尾を王の方へ伸ばし、何かを催促するように先端を曲げたり伸ばしたりした。
「もちろんだ」と王は頷き、懐から取り出した銀色の鍵の束を、大きな猫の尻尾に手渡した。
「これで囚われし友を自由にしてやってくれ。同行したいところだが、あいにく私は此処を守らねばならぬ」
疲れ切っている王は溜め息を吐き、光り輝く谷の方を見た。
「ここ数日で【次元の境界】も広がった…。今後何が起こるかも分からぬ。くれぐれも注意してくれ」
「りょーかいっ☆」
チェシャは尻尾を丸めて鍵をしまい、石畳を蹴って空高く飛び上がった。
「アリスを頼んだぞ…」
だんだんと小さくなっていく巨大な猫を見送りながら、王は小さく呟いた。
綿菓子を薄く伸ばしたような雲をいくつも突き抜け、雲と太陽しか見えない位置まで舞い上がった猫は、くるりと向きを変え、今度は遠く離れた地面に向かって急降下し始めた。
強烈な逆風が耳元でゴウゴウ音を立て、全ての内臓が背中に張り付く。
背の上の凶悪な冒険者は狂ったようにに笑い、その腕の中のか弱いウサギは悲鳴を上げた。
地面に激突する寸前で、チェシャは声を張り上げた。
「息を止めて!!!」
流星の如く猛スピードで落ちてきた巨大な猫と一人と一匹は、黒ずんだ石畳を風圧で撒き散らし、地面に溶けた。
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