冷たい水牢

 水浸しの石畳に身体を叩きつけられ、赤ずきんは呻いた。

 足首ほどの高さまである水が、痛む全身を冷やす。

 痛みと寒さで震える身体を起こし、夜のように暗い辺りを見回すと、見覚えのある檻が目に入った。

 檻に大量に付けられた錠前の鍵穴は、全てこちらを向いている。


 ここは不思議の国なのか…?

 だとしたら自分は気絶したらしい。


 光の届かない地下牢は真冬のように寒く、手がかじかみ、息は白く凍った。

 濡れた服と足元の水が、さらに体温を奪う。


 あまりの寒さに気分と機嫌が良くなった赤ずきんは、檻に近づき、中を覗き込んだ。

 暗闇の中、何かの弱々しい呼吸音が聴こえる。

「誰かいんのか…?」

 赤ずきんが檻の中の何かに向かって声をかけるも、返事は無い。

 目を凝らしても、中は暗過ぎて何も見えない。

 今はツルギもいないので、檻を破って中に入ることもできない。


 ここが以前アリスと共に落ちた檻だとすれば、今自分のいる後方に蝋燭を持った牢番が立っているはずだ。

 そう考えた赤ずきんは、床の水を跳ね飛ばしながら檻の反対側に向かって駆け出した。

 しかし、いくら進んでも牢番の姿は見当たらず、明かり一つ見えてこない。

 進むにつれて水嵩みずかさは増し、気が付くと腰まで水に浸かっていた。

 進む速度は落ち、歯がガチガチ鳴るほど身体は冷え切っている。

 それでもザバザバと冷たい水を掻きながら進んで行くと、今度は天井が低くなってきた。

 天井が頭に付くほど低くなり、水が顎まで浸かったところで、赤ずきんは足を止めた。

 この先に牢番がいたとして、火のついた蝋燭を檻まで運ぶのは不可能だろう。


 このまま進むか、檻まで戻るか思案していると、水が自分の進行方向に向かってゆっくりと流れている事に気が付いた。

 どうやらこの先は、行き止まりではないらしい。

 赤ずきんは潜り、無色透明で冷たい水の中、前方を見た。

 かすかだが、しばらく行った先に光が見える。

 一度水面に顔を出して呼吸をし、小さな冒険者は泳ぎ出した。


 道幅はどんどん狭くなり、ついに水が天井に達したが、赤ずきんは構わず泳ぎ続けた。

 前方にある光は、輝きを増してゆく。

 腹が床に、背が天井に擦れるほど狭くなった凍える水路を這うように進み、光が手の届く距離に来た。

 手を伸ばして光の正体に触れようとするも、まだ距離が足りないのか、触ることはできない。

 さらに前進しようと、床に手をかけようとすると、前方の床が無かった。

 赤ずきんはそのまま水に押し出されるようにして、光の中へと落ちていった。


 ばいんっ。

 妙に柔らかく、温かい、派手な色をした草原の丘に身体を打ち付け、赤ずきんは跳ね飛んだ。

 硬いツヤツヤした木で出来た地面に落ち、丘を見上げると、それは丘ではなく、巨大なチェシャ猫であることが分かった。

 チェシャ猫は丸めていた身体を起こし、自分の背に当たった小さな訪問者を見下ろした。

「あらぁ?今日はおひとり…?」

 瞬きする度、色模様を変えるド派手な猫は、妖艶な黄緑色の眼をパチクリさせた。

「それとも、アリスきゅんとはぐれちゃった…?」

 赤ずきんは、大きなクッションの上で首を傾げるチェシャ猫を無視して、辺りを見回した。


 ここは、どこかの家の中のようだ。

 何もかもが自分よりも大きいが、それ以外に変わったところは無い。

 自分が出て来たであろう、檻に繋がる水の出る場所は、どこにも見当たらなかった。

 部屋の中は、眠ってしまいそうなほど暖かく、びしょ濡れだったはずの服は、いつの間にか乾いている。


「今檻にいるのは何だ?この間来た時は何もいなかったあの檻だ」

 檻まで戻れそうにないと判断した赤ずきんは、何か知っていそうな目の前の妖しい猫に訊ねた。

 理由は分からないが、あの檻の中にいるのが何なのか、どうしても知りたかった。

 知らなければならないような気がした。


 チェシャ猫は大きな眼をゆっくりと閉じ、しばらく瞑っていたかと思えば、不意にカッと見開き、全身を青く染め、悲鳴を上げた。

「どうなってるの…!?」

 巨大な猫はクッションから降り立ち、訳が分からず唖然としている赤ずきんを長い尻尾で掬い上げ、自分の背に乗せ、声を張り上げた。

「落ちないよーに、しっかり掴まってて…!」

「何だ!?何があった…!?」

 小さな訪問者は激しく変色する猫の毛を掴みながら、慌てて駆け出したチェシャに訊ねた。

 土砂降りの大雨の中、暖かい公爵夫人の家を飛び出し、ぬかるんだ地面を蹴りながらチェシャは叫んだ。

「アリスきゅんが捕まってる…!!あの檻の中にいるのは、アリスきゅんよ…!!」

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