【始まりの逆】
白く輝く谷底は、再び鋭い風の音を響かせる。
アリスは地面の裂け目から、谷底の光に照らされても尚暗い王の顔に視線を移した。
「奴は何かに掴まる事もなく、宙に立ち、この中で笑っておった」
谷底を凝視する王の額を汗が伝う。
赤ずきんは不意に違和感を感じて、右手の人差し指を見た。
例の指輪が、微かに震えている。
「奴は人間のようでいて、人間ではない別の【何か】だった。私はその黒くて痩せこけた男に、今まで感じた事のない…、死より恐ろしいものを感じた。口うるさい私の妻も、その時ばかりは言葉を失った」
王は、その【何か】と対峙した時の事を深く思い出しながら目を閉じた。
「私が『お前は何者か』と訊ねると、奴は答えた。『私は【始まりの逆】である』と」
指輪の震えが止まった。
赤ずきんとアリスは、自分達を突き落とした男の正体が【始まりの逆】であることを確信した。
王は話を続ける。
「私はこの訳もなく恐ろしい見知らぬ男を、野放しにしてはおけないと思い、兵に捕らえさせ、地下牢の最奥に幽閉した。男は抵抗する事もせず、すんなり捕まった。鎖で繋がれる時も大人しく、不気味に微笑んでおった…」
「脱獄する自信があった、ってことか」
赤ずきんの言葉に、王は頷いた。
「三日前、奴は牢から姿を消した。檻に破られた跡は無く、まるで内側から消えたようだった。その日から、妻と数名の兵達の行方も分からなくなった。男を見張らせておった兵達は、皆恐怖で気が触れてしまった。どこへ逃げたかは分からんが、至る所で奴の気配がする…。私までおかしくなりそうだ」
王は顔を、大きな皺くちゃの手で覆った。
「そいつは俺達の世界に現れた」
アリスの発言に、王は目を見開いた。
「牢の天井に、俺達の世界に繋がる穴があいていた。俺達はその男に、その穴に突き落とされてここに来た。何もいない檻の中に落ち、狂った牢番にも会った」
トランプ兵達は、互いに顔を見合わせ、ざわめきたった。
「…二日前から俺は、森に向かって走る女中ウサギの幻覚を見るようになった」
初めて耳にする幻覚の話に、谷底に夢中になっていた赤ずきんも顔を上げた。
「ここの住民が現実世界に現れた事や、俺以外の現実世界の人間がここに来られた事など、今まで一度も無かったはずだ」
アリスは赤ずきんを親指で差した。
「…そして、こいつが黒い男に出会ったのは昨日で、この指輪を拾ったのも昨日だ」
そう言ってアリスは赤ずきんの右腕を掴み、王に見せた。
指輪を見た途端、王は顔を強張らせた。
「この指輪を見た女中ウサギは、【始まりの逆】だと言った。これはあの男と何か関係があるのか?」
アリスの問いに、王は険しい表情で首を傾げる。
「分からん。女中には、【始まりの逆】の事など何も知らせておらんはずだ。…しかし、その指輪からは、あの男と同じ嫌な感じがする。すぐに捨てた方が良かろう」
「しかし、外せねぇんだなぁ〜」
赤ずきんはケタケタ笑って、指輪のはまった人差し指をぷらぷら振り、「そんなことよりアレを見ろ」と谷底を指差した。
「あの球体、何に見える?」
アリスが覗くと、谷の少し狭まった所に、穴の空いた大きな金色の球体が挟まっていた。
「鈴か…?」
アリスは、自分達が穴に落ちる前に投げ入れた鈴を思い出した。
「あれは気絶する前に落としたはずだ」
自分達がドリンクで縮んでいることを考えると、その鈴は元の大きさのままそこに挟まっていた。
アリスの夢の中の世界である、不思議の国に出現した【始まりの逆】が現実に現れたこと…。
覚醒している時に同行していた赤ずきんや、気絶する前に投げ入れた鈴が不思議の国に来られたこと…。
夢と現実の境界が曖昧になっているのは確かだった。
アリスは眉間に皺を寄せた。
《俺達は今、本当に気絶しているのか…?》
覚醒した状態でこの世界に来たとすれば、ここから出る方法は…?
来た道を戻ろうにも、檻と現実を繋いでいた穴は、もう塞がっている。
目の前の鈴の挟まった谷…今のところ、この谷以外に当ては無かった。
「あの男の他に、誰かこの谷に入った奴はいないか?」
アリスが訊ねると、王は首を横に振った。
「奴を捕らえた後、探索のため兵を向かわせようとしたが、皆怖気付いて中には入れなかった。この谷からは、消失の予感しかせぬ。入るのは、よした方が良かろ…」
「おい、アリス!さっさとあの鈴拾って来よーぜ!」
好奇心を我慢できなくなった赤ずきんは、王の話を聞きもせず、鋭い風が吹き荒ぶ谷に飛び込んでいった。
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