嘲笑する猫

 瞬間、世界が崩壊したかのように思われた。

 草が、木々が、地面が、深くて黒い穴の底へと、落ちる、堕ちる、落ちる。

 手を伸ばしても、足を伸ばしても、何かに掴まることは出来ず、触れることも出来ず、ただひたすら暗闇の中、堕ちる、落ちる、堕ちる。


 延々と続く強烈な浮遊感。

 衣服は冷たい風と共に、身体にピタリと貼り付き、バタつき、臓器が、急降下する身体にブレーキをかけようと、体内から上へ上へと押し上げる。


 赤ずきんの狂ったような笑い声が、穴中に響く。

 彼にとっては、この、今にも死ぬかもしれない状況が、恐怖が、楽しくて仕方なかった。

 ツルギは眼を見開いて四本の脚をバタつかせ、ひたすら宙を走っては脚を縮め、走っては脚を縮め…を繰り返している。

 アリスは冷静に、服の中にある懐中時計に手を触れながら、堕ちる寸前に見た自分達を突き落とした男について考えていた。


 不意に落下速度が落ち、真っ暗だった穴の中がほんのり明るくなり、桃色、紫色、橙色…と交互に色を変え始めた。

「アリスきゅん、ひっさし〜ぶり〜ん☆」

 知らぬ間にアリスの肩に乗っていた、変わった色と模様をした猫が口を聞いた。

「チェシャか」

 アリスは自分の顔に纏わり付く尻尾を払い除けながら、チェシャという名の猫に訊ねた。

「お前がいるということは、ここは不思議の国なのか?」

「さぁど〜でしょぉ?」

 チェシャは澄まし顔で、アリスの質問をかわした。

 チェシャの身体の模様は、瞬きする度形を変え、色を変える。

 突然現れた妖しい猫を凝視していたツルギは、眼がチカチカして思わず首を振るった。

「おい、なんなんだその猫」

 ゆっくりと降下しながら赤ずきんがアリスに近寄ると、チェシャは赤ずきんの肩に飛び移った。

「キミはアリスきゅんのお友達ぃ?…ふぅ〜ん?」

 赤ずきんの顔を至近距離でジロジロ眺めながら、チェシャは赤ずきんの首回りをぐるぐる回る。

「どうやら俺達は気絶したらしいな」

 アリスが溜め息と共にボソリと呟いた。

「はあっ!?」

 赤ずきんは、自分の体を駆け巡るチェシャ猫を手で追い回しながら叫ぶ。

「どーゆうことだ!?」

「そいつは俺の夢の中の存在だ。チェシャがいるという事は、俺達のいるこの場所は現実ではない事になる」


「そ〜かもしれないし、そ〜じゃないかもしれないよん?」

 チェシャは、いつのまにかツルギの背中に移動してくつろいでいた。

 ツルギは正体不明の猫を背中に感じながら、恐怖に眼を見開いて固まっている。

「ほら、これ見て」

 チェシャはどこから取り出したかわからないランタンを尻尾の先に持ち、穴の中を照らして言った。

「これ、何に見えるぅ?」

 二人と一匹が落ちた穴は、思った以上に広く、普段アリスが夢で見ている【うさぎ穴】とはかけ離れたものだった。

 うさぎ穴とは違い、穴の表面に棚などは無く、均一に並んだ細かい何かで彫られたような跡がびっしりとあり、その全てが上から下へと伸びていた。

「なんだこれ…。指の跡か…?」

 赤ずきんが首を傾げながら表面に手を触れる。

 しかしその跡は、人間の指にしては二回りほど小さかった。

「いや…、これは……」

 アリスも表面の謎の模様を指でなぞりながら、眉を潜めた。

「……人間の歯の跡だ」


 アリスのその言葉を聞いた瞬間、チェシャは黄緑色の眼を見開いてニマァと笑い、ランタンを穴の壁に打ち付けて破壊した。

 その音で振り向いた二人と一匹に向かって、チェシャは楽しげに声をかける。

「さぁて、そろそろ着地の時間よん!準備はい〜い?お二人さん!あと、そこのワンちゃんもねっ!」

 穴の中は再び暗くなり、落下速度も徐々に速くなる。

 着地の姿勢を取ろうにも、先程とは違い、空中で上手く身体を動かすことができない。

「いくよ〜っ!さ〜ん!に〜!い〜ち!どっか〜ん☆」

 チェシャの声と共に二人は穴の底に激突し、全身に夢とは思えぬ痛みと衝撃が走った。

 遅れてツルギが、赤ずきんの上に降って来る。

 赤ずきんは悪態をついて、背中の上の無抵抗なオオカミを押し退けた。

 暗闇の中、呻く二人の頭上から「キャハハ」と笑うチェシャの声が、だんだんと遠ざかっていった。


 二人はゆっくりと立ち上がり、闇に眼を凝らして辺りを見回した。

 足元は冷たい石畳。

 背後はびっしりと石で埋まっており、道は無く、目の前には、何重にも鎖と錠前が巻き付けられた大きな檻の壁が広がっていた。

「なんだこの檻…何かいんのか…?」

 赤ずきんが錆び付いた鉄格子から中を覗くも、檻の向こう側は暗くてよく見えない。

「錠の鍵穴が、全て向こうを向いている…」

 恐ろしい事実に気が付いたアリスは、ゾッとするような笑みを浮かべ、落ち着いた冷たい声で呟いた。


「檻の中にいるのは俺達の方だ」

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