森へ

 赤ずきんの祖母が住むペロー地方は、グリム地方の北に位置する静かな山岳街だ。


 ペロー地方とグリム地方の間には、危険な森がいくつか存在するため、ペロー地方へ向かう時は、西に広がるアンデルセン地方の港町を通って迂回するのが一般的である。


 赤ずきんはそれが不満だった。


 距離だけで見れば、森から北へ直進した方がどう考えても早いではないか。

「危険だから」と言って避けて通るのは、腰抜けのやることだ。


 幼い彼はそう思っていた。


 各森の手前には見張り番(こちらの世界でいう警備員のような役割の人)が常に立っており、腕の立つ猟師以外は森に入ることを許されなかった。

 隙あらば森へ入ろうとする何も知らない子供は特に監視されているため、幼い挑戦者が森に入れたためしはない。


 しかし、この日は様子が違った。


 いつものように名産物の入った籠を抱えて森にそっと近付き、茂みから見張り番の位置を確認すると、いつもは5人以上いるはずの見張り番が1人もいなかった。

「どういうことだ?」と茂みから抜け出て辺りを見回すも、人の気配はない。

 何かが起きたのだろうか。

 ……いや、それにしては静か過ぎる。


 何はともあれ、これはチャンスと思った赤ずきんは、もう一度辺りを見回してから、一番近くにある【おとぎの森】に足を踏み入れようとした。


 その時、手前にある一本の木の陰に、背の高い男が立っているのが目に入った。

 赤ずきんはギョッとし、動きを止めてその男を観察した。

 全身が黒いその男は、木にもたれかかりながら、握った右手を胸の前で揺らしている。

 赤ずきんは村の大人のほとんどを把握していたが、こんなに背が高くて痩せこけた黒い男など見たことがなかった。

《コイツ…、人間じゃねーのか…?》

 そう思った瞬間、男が口を開いた。


「この世の【全て】は、【私】を目指してやって来る」


 唄うような脳に響くその声を聞いた途端、赤ずきんの右手人差し指に落ち着いていた指輪がガタガタと揺れ出した。

 驚いて指輪に視線を向け、すぐに男の方に視線を戻すと、男はいなくなっていた。


 赤ずきんは正体不明の男に恐怖を覚えながらも、その恐怖が快楽とでも言わんばかりに笑みを浮かべ、森の中へとズンズン進んで行った。


 森の中へ入っても時折鳥の鳴き声が聞こえるだけで、消えた見張り番達の気配は無かった。

 サワサワと風に揺れる背の高い木々が日光を遮り、薄暗い地面には所々コケが生えている。


 落ちていた大きめな木の枝を拾って装備し、進行の邪魔になる大きな葉やツルを手当たり次第殴りつけながら幼い冒険者は進む。


 そんな赤ずきんに目を付けた飢えた獣は、音も無く真後ろにある茂みの中を進んでいた。

 黄色い目をギラつかせ、よだれを垂らし、息を殺して滅多にお目にかかれない御馳走に接近する。

 あと数10センチのところで突然獲物が振り返り、手に持っていた太い枝で獣目掛けて殴りかかった。

 枝は獣の左頬をかすめて地面を打った。

「よォ、オオカミ…!」

 赤ずきんは、殴り損ねたオオカミにくっ付きそうなほど顔を近付け、目と歯を剥き出して笑った。

 臆病な腹ペコオオカミは、人間の子供の意外過ぎる行動にぎょわんと驚き、飛び退いて逃げようとしたが、コケの塊に蹴躓いて仰向けに転がった。

 慌てて起き上がろうとする哀れなハンターに、凶暴な赤いずきんが迫り来る。

 オオカミは咄嗟に目に涙を溜め、潤んだ瞳で赤ずきんを見上げながら、か細い声できゅんきゅん鳴いた。


 オオカミの残念な行動に戦闘意欲が薄れた暴力少年は、呆れた顔で吐き捨てるように言った。

「つまんねぇ雑魚オオカミ!」

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