第22話 杏子と私

 部屋に入って気づいたのは、この部屋だけ妙にモノクロの黒が強いこということだった。普段は単なる白黒の世界が、黒に侵食されているかのように、白が食いつぶされていた。


「杏子」


 ベッドに座っている彼女に声をかける。その声に、時雨は驚いたようだが、今は目の前の彼女のほうを優先したい。

 ゆっくりとこちらを向き、まっすぐ私を見据える。真っ黒で、何も映らなかった瞳は、私だけを映した。


「あ、せんぱい。もう大丈夫なんですか?」


「そっちこそ。大丈夫?」


「えぇ。まぁ私は結構丈夫ですし」


 心のほうまでは丈夫じゃないんだねという言葉は喉に置いてきた。

 少しの沈黙が流れる。時雨は未だに心配そうに私を見ているが、そんなに心配されるようなことはしない。ただ会話するだけだ。


「せんぱいは、私のことを恨んでいますか」


 恐る恐るといった様子で聞いてくる。彼女にとっては、この発言すら勇気のいるものだったのだろう。それこそ、最初のこちらを心配する発言も、勇気が必要だったのかもしれない。

 ならば、こちらもそれ相応の対応をするのが、誠意というものだろう。


「全く恨んでないよ。けど、後遺症が残ったのは、少しつらいかな」


 許さない。彼女を私は許してあげない。


「後遺症、ですか」


「うん。今のところ、時雨と杏子以外を認識できないらしいよ」


 明らかにわかっていない様子に、さっきまでの緊張が少し解ける。そんな症状、聞いたこともないからわからないのだろう。


「時雨、今氷雨さんってそばにいるの?」


「えっ、あ、うん」


「今そこにいるらしい氷雨さんを認識できないんだ。だから、私に話しかけられても、触られてもわからない。つまり、この症状が治らない限り、私の視界に映るのは、時雨と杏子の二人だけなんだ」


 後遺症の重さを理解したのか、杏子の目からは涙か零れ落ちていた。だが、その様子を見ても全く心が痛まない。ただ、自業自得とも思わない。ある意味、一番残酷な興味がないという状態だった。


「とりあえず、杏子が認識できるとわかってよかったよ。それじゃ、私たちはこの辺で」


 そう言って私は部屋を去ろうとするが、か細く呼び止める声が聞こえる。それは、救いを求めるようにも聞こえるし、許しを請うようにも聞こえる。


「せんぱい。許してもらおうなんて思っていません。ただ、私の自己満足で、償いだけはさせてください」


「……わかった。あんまり自分を責めすぎないでね」


 無情なまでに優しさを与える。その方が辛いのがわかっているから。

 ドアを閉めると、こちらを覗きながら時雨が聞いてきた。


「おにぃ、よかったの?あんな見放すようなことして」


「いいんだよ。杏子は結構タフだからね。それに、死にたくなったら、また私を道連れにするよ」


 それが、惚れた弱みというものだ。




 私が思うに、一番つらいのは学校生活だろう。時雨や見えない氷雨さんが先生方に私の症状を説明した後、医師の診断書も持ってきて、ようやく信じてもらうことができた。そして、どうやって授業を受けるかの問題に当たった。そもそも先生の存在が認識できないのだから、授業というものが成立しない。

 一応、黒板にチョークで書くと、書かれたものは認識できる。それと同時に録音したもので授業するのはどうかという案が出たらしいが、録音した音声すら、私は認識することができなかった。

 結局、先生の録音を時雨が発言することによって、私が学ぶという二重構造を経て学習するという結論に至った。その分、他の人より多くの課題が出るらしいが、仕方ないことだろう。

 それに、時雨にはかなりの負担になっている。一か月ほど続いたところで、時雨の寝不足や疲労が目立つようになり、この方法はやめになることになった。


 次に出た案が、退院した杏子と一緒に学ぶというものだった。杏子に授業の動画を送り、その後私が杏子から教えてもらうことにより、杏子のインプットとアウトプットを兼ね備えつつ、私の学習を進めるというものだった。

 これに、時雨が難色を示したが、代替案もないということで、この案を進めることになった。そしてこれが功を奏し、杏子の理解度は以前より増し、時雨の負担もなくなったことで、しばらくはこの案が進められることになった。

 杏子も一つ下の学年だが、元々成績の良かった杏子は、先生方からもらった要点だけをまとめた動画をすんなりと理解し、もはや私と遜色ないレベルまでの頭脳となっていた。





「せんぱい。私、しっかりと償えてますかね」


 昼休み。他には誰もいない教室で、杏子が話しかけてきた。その声は不思議と教室内に響くものではない。だが、今となっては当たり前の光景である。


「そうなんじゃない?もう十分だと思うけどね」


 これは紛れもない本心だ。杏子は私のために頑張ってくれているし、役目も果たしてくれている。これ以上ないくらい償ってくれている。


「それ、なら……」


 期待するような視線で私を見つめてくる。あの日と、同じ瞳だ。


「まだ私にも、チャンスはありますかね?」


 本当に、杏子は懲りない。でも。いや、だから




「杏子。私は元から、杏子のことが好きだったよ」

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