第17話 せんぱい

 次に目が覚めたのは、病院のベッドの上だった。

 そして、すべて解決した後だった。


 彼女の母は暴行罪として刑務所行きになり、もう生活を脅かす者はいなくなった。その後、まともな親戚の人に引き取られて、今までとは違った幸せな生活を送っているらしい。

 私はというと、全治一か月の重体でベッドの上から動けない生活を送っていた。だが、案外つらいものではない。なぜなら、毎日彼女が私の病院へと足を運んでくれ、話し相手になってくれるのだ。


「今日学校でね、花園ちゃんがね……」


 こうやって、毎日学校であったことを話してくれる。

 かなり遠いのにどうやって来ているのか聞いたことがあるが、引き取り先の親戚が車で送ってくれるらしい。そのうち、手土産でも持たせたほうがいいのかな。


「あ、氷雨さん、時雨さん」


 視線をずらすと、二人が扉のそばに立っていた。この二人は毎日というほどではないが、かなりの頻度で来てくれる。

 私が目が覚めたころの二人は、力強く出し決めてくれるほど心配してくれた。本当に、今は愛されていると感じる。


「もうそろそろ退院だから、持ち物はまとめておけよ」


「え、もうそんなに経っていたんですか」


 全く何の準備もしていない。多分、彼女の話をしているのが楽しくて、一日が短く感じていたせいだろう。


 荷物をまとめながら、今までのことを思い出す。公園で彼女を見つけて、それからは家族みたいに楽しく過ごしたな。毎日遊んだり、騒いだりして氷雨さんに怒られることもあったっけ。彼女……あれ、名前知らないな。今まで呼ぶ機会もなかったし。聞いてみようかな。


「名前、聞いてもいいかな」


 彼女に向けてそう言うと、周りの空気が静まり返る。

 むしろ知らなかったのかとでも言いたげな目を向けられるが、の笑い声にすべてがかき消される。


「言ってなかったね。私の名前は」






「杏子」


 彼女を呼ぶ。夢中になって話していたことも忘れて、私の返事をただそっと待っている。


「杏子は、昔から私のことが好きだったよね」


「は、はい。救ってくれた日から、ずっと」


 大きくなった体。成長した心。もう、昔の杏子とは違った。


 目の前の杏子は、天真爛漫な少女ではなく、大切なモノをなんとしても手に入れようとする猛獣。


 それは悪いことじゃない。だけど、私には応えないといけない人がいる。だから、杏子のモノにはなれない。


「ごめん。杏子の気持ちには応えられない」


「なんで、ですか」


 今にも泣きだしそうで、その姿だけ見れば、彼女は何も成長していなかった。

 もしかしたら、そうなのかもしれない。外見を取り繕って、みんなに合わせて。成長しているように見せている、ただの幼い少女なのかもしれない。


 そんな彼女を抱きしめてあげたかった。だが、彼女よりずっと弱い少女の想いが邪魔をしてくる。あぁ、どうしても私は、好きになるのを許されないらしい。


「ごめん」


 俯き、ひとこと零す。

 納得してくれるわけがない、許してくれるわけがない。そう思っている。体が変わった私でさえも愛してくれたのに、想いを踏みにじってしまうのだから。せめて、できる限りの贖罪はしよう。そう決心していた。


 だが、現実はもっと残酷らしい。


「せんぱい」


 顔を上げ、視界に入った姿に昔の面影はなかった。泣き顔なんてものはなく、むしろ笑顔でいっぱいのその姿には、狂気といえるものがあった。


「私の人生はせんぱいが作ってくれました」

「私の生活はせんぱいが作ってくれました」

「私の身体はせんぱいが作ってくれました」


「私の記憶はせんぱいだけでした」


 そんなことない。少なからず、麻音さんとは友達のはずだ。時雨だって、幼いころは楽しく遊んでいたはずだ。私だけが杏子の記憶を作っているわけではない。

 反論をしようにも、有無を言わさない雰囲気を醸し出しだしている。私が口出しできる隙なんて、一切なかった。


「だから、これからの人生もせんぱいが導いてくれると信じていました。けど、どうやらせんぱいにその気はないようです」


 それから、一度深呼吸を行った彼女は、私の目をみて力強く言う。


「せんぱい。ずっと一緒ですよ」




 瞬間、世界が灰色に染まる。




 二度目の感覚。

 感覚が鈍くなる。


 手を引かれる。表情は、明るい。

 何をするのだろうか。


 歩いていく。やがて、別の何かが手に触れる。

 どうやら手すりらしい。

 体が少し浮き上がり、地面についたと思ったら、背中に冷たさを感じる。


 隣に杏子が来てくれて、抱きしめてくれる。


「せんぱい。怖いと思いますから、目をつぶっていてください」


 言われたように目をつぶる。

 視界が真っ黒に染まる。今感じるのは、隣にいる杏子のみ。


 手が、前に引かれる。


 少しの浮遊感を感じるともに目を開く。


 視界いっぱいの杏子の顔。その顔はまさしく、少女の顔だった。


 口が塞がれる。キスをしているのだと自覚するのに時間がかかった。そのせいで、地面が近くまで迫ってきていた。走馬灯なんてない。今の私には、彼女しか映っていないからだ。

 口が離され、空気が入ってくる。それと同時に、声が聞こえた。


「あいしています」


 鈍い痛みが走る。想像していたより痛くはなかった。


 体が冷える感覚がする。


 最後に見えたのは、悲鳴をあげている色付いただけだった。

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