第16話 帰りたくない

 好き。

 その言葉を聞くのは二回目だった。一回目は時雨。二回目は目の前にいる人。しかも、一回目の返事すらしていない。こんな私のどこが好きになるんだろうか。


「なんで私のことが好きなの?」


 気づけば、言葉にしていた。今までずっとわからないかったこと。優芽さんも、杏子も、時雨も。突然性転換するような私のどこが好きなのか。それが知りたかった。


「なんで、ですか。少なからず、私はせんぱいが女の子になったからと言って恋を諦める人じゃないからですかね」


 私の質問への回答にはなっていなかったが、一つ重要なことを聞くことができた。私が男になっていたころから杏子は私のことが好きだったのだ。

 それはつまり、私の内面に惚れたということでもあるだろう。ますます、なぜか好きなのかがわからない。


「私よりいい人もいると思うけど?」


「せんぱいは、自分のことを何もわかっていません。そもそも、せんぱいは私のことを救ってくれました」


「……それは、あくまで成り行きだよ。別に私が何もしなくても、杏子は一人で解決できたよ」


 私と杏子が出会った理由。それを言っているのだろうけど、あれは私が救ったわけじゃない。私はあくまでもきっかけを与えただけなのだ。


「私だけでも解決できたかもしれません。ですが、実際にあの場にいて、手を差し伸べてくれたのは他でもない、せんぱいなんです。その場にいて、私に目を向けてくれたのはせんぱいだけなんです」


 熱のこもった視線。力強い言葉。それらが意味することは、考えるまでもなくわかった。


 あの日、あの瞬間。杏子は私に惚れたのだ。






 杏子を救ったのは、まだ私が小学生のころ。公園で遊んでいたときに、全身あざだらけだった少女を見つけたのがきっかけだった。

 少女は誰と遊ぶわけでもなく、公園のベンチで一人静かに座っていたのだ。


「君、ここで何しているの?おうち帰らなくていいの?」


 もうすぐ日が沈み、夜が訪れるだろう。だが、少女はそこから動く様子はなく、まるで帰らないと意思表示をしているようだった。

 それを不思議に思った私は、声をかけたのだ。


「……帰りたくない」


 聞こえた声は、あまりにも痛々しいものだった。よく見ると、あざだけでなく、何かを押し付けられたようなやけど跡や、刃物で切られたような傷も存在していた。


 虐待


 その言葉が私の脳裏に浮かぶのは、至極当然のことだった。


 気づけば、私は少女の手を引いていた。

 彼女を放っておけない。これ以上危険な目に合わせたくない。私のような子を救いたい。

 そんな気持ちが、私の体を動かしたのだ。


 家に帰り、氷雨さんに事情を話す。無言でうなずいてくれる氷雨さんには、大人の信頼感が漂っていた。この人なら何とかしてくれる。そう思ったのだ。




 何日も少女を家に泊めていると、少女を探す一人の女性が街中に出現するようになった。その姿を何度も私たちは目撃している。それどころか、ここら一帯では、不審者として情報が出回っている人物だった。


「氷雨さん、あの人だよね。この子の親って」


「多分そうだな。だが、あの様子だと渡したところで、よくて虐待。最悪の場合、殺されることだってあるだろう」


「殺される……」


 全身の血の気が引いていく。


 首を絞められ、殺されそうになった記憶。


 あの情景を思い出しただけで、私の意志は固いものとなっていた。この子は私が守る。何があっても守る。渡してなるものか。

 氷雨さんだけでなく、時雨も同じ意見だったらしく、私たち一家の意志は一つにまとまっていた。


 だが、その意志は簡単に壊される。




「やだ!!離して!!!!」


 デパート内に聞こえる少女の大声。これだけだと家族喧嘩でもしたのだろうかと思うだろう。

 しかし、私は違った。彼女があの街中で見た鬼に連れ去れそうになっている姿が見えた。激しくもがいているが、まだ小学生の子供が、大人に力で敵うはずもなく、今にも連れ去られそうになっている。


 氷雨さんと時雨は別の店で買い物をしている。今から二人を呼んだとしても、ついたころには手遅れになっているだろう。

 私が行動するしかないのだ。私があの鬼を払わなければいけないのだ。


 そう思ったら、体は簡単に動く。全力で走り、少女のもとへと向かう。涙目でこちらを見る少女に、私は応えなければいけなかった。


 必死に向かう。人ごみをかき分け、ついに少女のもとへと着く。鬼は私のことを訝しんでいるが、そんなことはどうだっていい。少女の手を引く。だが、それでも鬼の力には敵わない。


 苛立ちを隠しきれなくなった鬼は、ついに私を蹴り飛ばした。

 腹に痛みが走る。突然の痛みに混乱している余裕さえなく、顔に痛烈な一撃が入る。それからさらに追撃が来る。何度も、何度も何度も。


 痛みに耐えながら、かろうじて少女に向けて発した。


「に、げて」


 私へ夢中になっているバカはそれに気づかない。少女がその場から去ったことにも気づかない。


 視界がだんだんと黒く染まり、痛みが鈍くなっていく。意識がなくなりかけていると気づいた私は、とにかく願った。それは、彼女へ向けての祈り。これからの明るい明日を信じての願い。


 彼女に、幸せがありますように。

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