すれ違う心

「知らなかったよ、こんなことしてるなんて」


 日の光が照らす視界の下で、女子生徒が自転車を引きながら歩いていくのが見えた。俺はポケットからカードを取り出し、窓辺に肘を置く。透明な部分が日光を反射して、俺の目に白い光を突き刺した。


 「……話す気なんて、なかったから」


 「それは……そうなんだろうけど」


 何を話せばいいのか分からなくて、どうしても言葉に詰まってしまう。短くぎこちない会話がぷつりと途切れたことで、広すぎる廊下に微妙な空気が漂い始めた。


 自転車を引いた女子が、門の外へと移動していく。代わりに三人ほどの女子が下駄箱のほうからやってきて、大きな声で会話に花を咲かせ始めた。断片的に聞こえてくる単語からして、昨夜放送していたらしいドラマについて話しているようだ。


 「あのさ。もし、この先俺の力が必要になることがあったら……俺、協力するから」


 女子たちをぼんやりと見つめながら、俺は頭の片隅で思っていたことを口にする。そよ風に揺られていた木の枝が緩やかに動きを止め、木の葉の擦れ合う音が止んでいく。


 「……本気で言ってるの?」


 今までに聞いたことのない、低く強い声で美代が言った。暗い感情を孕んだ声色に、俺は思わず身を竦ませる。


 「いや、本気っていうか……。昨日みたいに力になれたらなって、ちょっと思っただけで……」


 「あれは偶然。調子に乗らないで」


 俺が戸惑いつつも紡いだ言葉を、美代はきつい口調で遮った。手提げ袋を持つ手が、いつの間にか固く握られていた。


 「私が間に合わなかったら、あなたは死んでたの。全員無事だったのは、偶然でしかないんだから」


 叱りつけるような台詞に、俺は少しばかり不快感を抱く。


 「調子になんか乗ってねーよ、俺はただ――」


 「お前を助けたいだけ」と言いかけた俺は、美代の顔を見て言葉を飲み込んだ。顔を上げた美代の、大きな瞳がじっと俺を見つめている。


 瞳の表面は日の光を受けて、水面のように揺らめいている。きゅっと引き結ばれた唇の先が小刻みに震え、長い下まつ毛に透明な液体が滲む。


 ――美代は、泣いていた。


 俺の頭の中が、霧に覆われたかのように白く染まっていく。微かに動かした唇は、弱々しい息を漏らすことしかできない。


 「ADRASは万能じゃない。適合者だからって、不死身になれるわけじゃないの。……お願いだから、これ以上私たちに関わろうとしないで」


 白く小さな拳を固く握り、美代は力なく頭を垂れる。長い髪が揺れ、汚れ一つない制服の上にはらりと舞い降りる。


 時が止まったかのように、俺は動きを止めてしまった。思考停止に陥って、動くという考えに至ることすらできなくなったのかもしれない。


 やがて美代は床を蹴って駆け出し、俺の顔を見ることなく立ち去っていった。階段を駆け下りる小さな背中と共に、床を打つ音が階下へと消えていく。


 引き止めたほうがいいだろうか、と考え始めたときには、既に足音すら聞こえなくなっていた。


 俺は美代の去った方向を見つめた後、深く溜息をついた。肘をついたまま手の上に顎を乗せて腰を曲げると、温かい日差しが意識を遠くに運んでいく。


 また、あいつを悲しませてしまった。


 もちろん、そんなつもりなんて微塵もなかった。美代の力になりたい。異空災害に巻き込まれた人たちも救いたいと、俺なりに考えた末の発言だった。


 昨日は助かったけど、今後も無事帰って来られる保証なんてない。

 だからせめて、側にいたいと思ったのに。


 八年という月日は、あいつから俺に対する信頼までも奪ってしまったのだろうか。


 窓の外から笑い声が聞こえてきて、俺は意識を現実へと引き戻した。ドラマについて話していた女子はいつの間にかいなくなっていて、おそらく三年生と思われる男子が数人で固まって歩いている。楽しげに会話をしているみたいだけど、今度は何を話しているのかまでは分からなかった。


 「……帰るか」


 俺は窓辺から体を起こし、深く息を吐き出す。大して時間は経っていないはずなのに、体が妙に重く感じた。

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