秘密の救助者たち(8)

津上先生の肩が、一瞬だけぴくりと震えたように見えた。


 やはり何か知ってるのでは、と淡い期待を抱きつつ、俺ははやる気持ちを抑えて言葉を続ける。


 「実は俺、八年くらい前にも異空災害らしき現象に巻き込まれたことがあって。その時に助けてくれたのが、オレンジ色のADRAS……だと思うんですけど、銀色の鎧みたいなものを着た人だったんです」


 異空災害という言葉に反応したのか、津上先生が上半身をひねって椅子の背もたれによりかかった。年季の入った椅子が軋み、歪な音が部屋中に満ちる。


 「……やけに飲み込みが早ぇと思ったら、そういうことか」


 指を折り曲げ開いた手を、津上先生は乱暴に額へと押し当てる。乱れた髪の中へ潜り込んだ指先が、跳ねる毛先を押さえ込んで頭皮を掴んだ。


 「先生なら、何か知ってるんじゃないですか? その人の名前とか、今どこにいるのかとか……」


 はやる気持ちに比例して、姿勢が前へ前へと傾いていく。


 まだ中学生の俺にとって、八年という月日はあまりにも長い。人生の半分以上もの時間をかけて探し続けていた人に、やっと会えるかもしれないという期待が、俺の体を前へと押し出していく。


 何も、特別なことは望んでいない。ただ一言、お礼を言いたいだけだ。あの絶望的な状況から、俺を救い出してくれたこと。おかげでこうして、中学生になるまで生きられていること……。


 やがて、津上先生は背中を丸めたまま俺から目を逸らした。重い吐息とともに、乾いた唇が静かに開かれる。


 「……知らんな」


 俺の期待とは対照的に、ひどく冷めた言葉が津上先生の口から放たれた。起伏に乏しくて、冷淡という表現がしっくりくるほどだ。


 「そんな……」


 俺の中で膨らんでいた期待が、穴を空けられた風船のようにみるみるうちにしぼんでいく。


 そんなはずはない。あの見た目も、人間離れした身体能力も、ADRASによるものじゃなかったら何だというのだろう。今は何らかの理由で活動していないとしても、存在自体は知っているはずではないだろうか。


 「当時子どもだったとしても、八年も経ってりゃ今は立派な大人だろ。一人でも大人がいるなら、お前らに頼んだりはしねぇよ」


 「それは、そうかもしれないけど……」


 津上先生の、眼鏡の奥にある目が細められ、鋭く尖ったガラス片のような光を帯びる。


 「記憶違いじゃねぇのか? 昔の記憶なんて、そんなもんだろ?」


 ――記憶違い。


 腹の底から、熱い感情がぼこりと沸き上がる。


 八年前も、同じようなことを言われた。

 夢でも見ていたんだろうとか、勘違いだとか。挙句の果てには、嘘つきと――


 「……先生まで、そんなことを言うんだな」


 俺は踵を返し、わざと足音を立てながら大股で理科準備室を出た。


 机の上に置きっぱなしだったリュックを乱暴に掴み、肩に掛ける。暗い気持ちから逃れるように、足早に理科室の外へと飛び出す。


 後ろ手で閉めた引き戸が、思いの外大きな音を響かせた。音は微かながら廊下に反響し、やがて静寂に呑まれて消えていく。


 扉を背に、俺は再び息を吐く。


 八年前の時点で、あの人は俺を抱えられるほどの体格を持っていた。昔の記憶だから曖昧なところもあるけど、少なくとも今の俺よりは年上だったんじゃないかと思う。


 もしそうなら津上先生の言うとおり、今は成人しているはず。大人がいないと聞かされた時点で、そのことに気付くべきだったとは思うけど――


 「何で、誰も信じてくれねーんだよ……」


 親父や、松ノ木さん。小学校の先生や、病院の人たち。


 俺の周囲にいた大人たちは、馬鹿にこそしなかったけど、信じてもくれなかった。クラスメイトたちには信じて貰えないどころか嗤われ、美代と疎遠になる切っ掛けになってしまった。


 信じると言ってくれたのは、母さんだけだ。だけど母さんは、もうこの世にいない。


 あの現象……異空災害を知っている津上先生なら、信じてくれると期待していたのに。


 未だふつふつと湧いてくる感情が、大きな溜息となって吐き出される。


 ひんやりとした空気が頬を掠めて、俺は顔を上げた。冷たさを感じたのはその一瞬だけで、肌に触れる日の光が柔らかな温もりをもたらしている。


 ずり落ちかけていたリュックの肩紐を整えて、俺はゆっくりと歩いて廊下に出た。

 うっすらと陰る空間の中で、窓の側だけは眩しいくらい明るく感じる。


 その光から少し外れた場所に、先に理科室を出たはずの美代が立っていた。


 手提げ袋を肩に掛け、白いコンクリートの壁に背中を預けている。伏せた顔には濃い影が落ちていて、準備室にいたときと変わらない雰囲気を纏っていた。


 「……まだいたのか」


 俺が声をかけると、美代は黙ってこちらを向いた。目が合ったのは一瞬だけで、憂いを帯びた瞳は俺から逃げるように窓の外へと流れていく。


 やっぱり、目は合わせてくれないんだな。


 寂しさを覚えつつも、俺は美代の隣に立って窓の外を眺めた。慣れない光に目を細めると、視界を一羽の小鳥が横切っていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る