秘密の救助者たち(5)

 「ここまでは理解できたか?」


 顔を上げた津上先生に、俺は小さく頷いて答える。レンズの奥に見える目が一瞬だけ丸くなったのは、多分気のせいではないのだろう。


 突拍子もない話を冷静に受け入れているのは、昨日あんな目に遭ったばかりだからか。あるいは、八年前の経験があるからだろうか。


 津上先生の手が、再び緩やかに動き始める。


 「危険ではあるが、異空間の物質が流れ込んでくるだけならまだいいんだ。ある程度なら、普通の災害同様に対処できるしな」


 矢印の根本に、ギザギザとした物体が描かれる。いびつないが栗にしか見えないそれを描いていた手が止まると、眼鏡の奥から覗く眼が静かに俺を捉える。


 「厄介なのは、曖昧になった境目に人がいた場合だ。……昨日の、お前らみたいにな」


 津上先生の声に呼応するかのように、空気が急に重くなったような気がした。眼差しから何とも形容し難い圧を感じて、俺は思わず体を反らす。


 「一度異空間へ入り込んじまうと、基本的にこちら側へ戻る方法は存在しない。つまり……」


 津上先生はそこで一旦言葉を切り、ペンのキャップを閉めた。ホワイトボードをテーブルの上に置くと、その上にペンを横たえる。ペンは置かれた場所に留まろうとせず、毬状の絵を踏みつけて俺の方へと転がってくる。


 「迷い込んじまったら最後、生きて帰ることはできねぇってわけだ……少なくとも、自力ではな」


 ペンがホワイトボードの縁に当たって跳ね返り、動きを止めた。行き場を探すように左右へ揺れ動き、やがてぴくりとも動かなくなる。


 冷たい感覚が首筋から背中を通って、全身を舐めるようにじわじわと広がっていく。

 その感覚から逃れるように、俺は手に持つカードを強く握りしめた。アクリルのようなつるりとした感触の奥に、微かながら人肌のような温もりが感じられる。


 「……が、実は一つだけ、異空間へある程度自由に出入りできる方法がある」


 ゆっくりと手を伸ばして、津上先生はペンをつまみ上げる。赤いほうのペン先が、カードの端付近を軽く叩いた。


 「それが、ADRAS……お前がものにした、その力だ」


 傷一つない透明な板が、僅かな日差しを跳ね返した。内部の金属と共に、鋭くも美しい輝きが散る。


 「そいつを使えば、ほんの一時的だが異空間への出入り口を開くことができる。さらに、異空間では適合した人間を守る装備となって人間離れした身体能力を与え、カードの状態でも適合者の自然治癒力を高めるという優れものだ」


 「へえ……」


 頷きながら、俺は額を指で撫でた。


 つまり、昨日確かに負ったはずの怪我が治っていたのは、ADRASのおかげだったということか。


 俺はカードの端を両手でつまみ、まじまじと眺める。空を飛び、霧を吹き飛ばし、怪我まで治すほどの力をこんなに小さな板が秘めているとは、正直に言うと今でも完全には受け入れられていない。


 「……と、ここまでなら、いいことづくめなんだがな」


 カードの向こう側で、津上先生が溜息をつきながら頬杖をついた。

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