秘密の救助者たち(4)

  一人いなくなっただけにも関わらず、妙に重い沈黙が辺りを包む。


 見知った顔しかいないのに、何を話せばいいのか分からない。津上先生の手元から発せられる金属音だけが、狭い室内に虚しく満ちては溶けていく。


  ふと隣から視線を感じて、俺は右へと顔を傾ける。いつの間にかこちらを向いていた美代は、俺と目が合うより早く逃げるように顔を背けてしまった。


 思い返せば、昨日の昼もこんな感じだった。長く関わりを避けてきたとはいえ、美代の態度があまりにも素っ気ないことが、どうにも気になってしまう。


 (なんか……居心地悪いな)

 

 俺と美代は互いに押し黙ったまま、津上先生の背中を見守っていた。


 時計の針が、無感情に時を刻んでいく。一定間隔で発せられる音が空気中に溶け、また放たれては消えていく。


 普段なら意識しないと聞こえないほど小さな音なのに、今は妙に大きく聞こえて仕方がない。


  そうして、どのくらいの時間が経った頃だろうか。


 部屋の中に満ちていた静けさは、津上先生の大袈裟な吐息によって終わりを告げた。


 「持ってけ」


 椅子に座ったまま津上先生が振り返る。差し出された手から透明な板が顔を覗かせたかと思うと、指に弾かれてひらりと宙を舞った。テーブルの上へ落ちそうになるそれを、俺は慌てて両手を伸ばして受け止める。


 「いや、これは美代が落としたやつで――」


 「起動できたんなら、正真正銘お前のもんだ。遠慮せず使えばいい」


 津上先生は頭を掻きながら、脚を伸ばして座ったままこちらに近づいてくる。背中を丸めて頬杖をつくと、眠そうに垂れた目が静かに俺を見上げた。


 「で、昨日のあれについてはどこまで聞いてるんだ?」


 黒縁眼鏡の奥から見える目が、僅かに鋭さを帯びた気がした。普段とは違う雰囲気への変化に、俺は思わず背筋を伸ばす。


 「異空災害って呼ばれてることと……ADRASを使える人だけが、助けに行けるってことくらい、かな?」


 俺はちらりと、横目で美代を見ながら言った。


 「まあ、ざっくりまとめるとそんな感じだが……もう少し、詳しく知っといたほうがいいだろうな」


 怠そうに息を吐いた津上先生はくるりと俺に背を向けると、椅子ごと机の前へと移動して引き出しを開けた。中を漁って何かを取り出すと、引き出しを閉めて再び元の場所へと戻ってくる。


 その手には小さめのホワイトボードと、赤と黒の二色を備えたペンが握られていた。


 「信じられんだろうが、あれはれっきとした災害の一種だ。とはいっても何が原因なのか、どういう仕組みで発生するのかも、何一つ判明してねぇんだけどな」


 ペンのキャップを外した津上先生は、ホワイトボードの左端にペン先を添えた。縁の中央辺りから真っ直ぐな線が引かれ、ホワイトボードが上下にニ等分される。


 「一度でも遭遇した以上、あれが何なのか知っておいたほうがいいだろう。現時点で分かってることは少ないが、今後のためにもしっかり聞いとけ。いいな?」


 気怠げな眼差しが、俺へと向けられた途端に別人のような鋭さを帯びた。どこか眠そうな雰囲気はしっかり残しつつも、ガラスのように冷たい光が俺の目へと突き刺さる。

 津上先生にしては、随分と真剣な目つきだ。その迫力に息を呑みつつも、俺は静かに首を縦に振った。


 「よし、まずはこっち側とは別に妙な世界……異空間と呼ばれる場所があるってことを知っておいて欲しい」


 津上先生はホワイトボードを立てて俺に向けると、キャップを閉めたペン先で上段の余白をつついた。黒い点を残してペン先が移動し、下段にもいくつか点を落とす。上段が俺たちのいる場所で、下段が津上先生の言う異空間を指しているのだろう。


 「で、何らかの理由でその境目が曖昧になると、異空間にあるものがこっち側に流れ込んでくるんだ。俺たちはこういった現象を全部まとめて、異空災害と呼んでいる」


 津上先生の指先が、ホワイトボードを区切る線の真ん中に触れた。そのまま線をこすり始め、くっきりと描かれていた線がみるみるうちに薄くなっていく。


 「怪奇現象って……具体的に、どんなことが?」


 「そうだな……例えば異空間の、火の気がある場所とこっち側が繋がっちまったとする。そうなると、異空間の炎がこちら側に流れ込んでくるわけだ。この場合、何が起こると思う?」


 黒縁眼鏡の奥から覗く眼差しが、再び俺を捉える。どこか眠そうな雰囲気はしっかり残しつつも、ガラスのように冷たい光が俺の目へと突き刺さる。


 「火災……?」


 「その通りだ」


 津上先生は黒いペン先に蓋をすると、今度は赤いほうのペン先を開けて下から上へと矢印を引く。


 「この場合、異空間から流れ込んだ炎が、こっち側の可燃物に燃え移って火災になるってパターンが多いみてぇだな。いつでもどこでも発生する可能性があるから、防ぎようがねぇってのが厄介なところだ。……そういや昨夜も、それっぽい火災があったらしいな」


 津上先生が何気なくこぼした独り言に、俺は思わず身を固くした。


 夜中に聞こえたサイレンと、親父に染みついていた臭いが蘇る。


 俺の知らないところで、身近な人たちが異空災害の現場に近づいていたかもしれない。そう思うと、ぞっとする。


 「ちなみに、流れ込んでくる物質は火以外にも色々ある。水や土砂とかがほとんどだが、瘴気やら呪詛とかいう、得体の知れないもんが流れ込んで来たこともあるらしい。ま、どっちにしろ、危ねぇもんなのは変わらんな」


 津上先生がペンのキャップを開ける。下段から上段めがけて緩やかな曲線を描いたあとに、上段の線の先に黒い三角形が書き足されて一本の長い矢印となった。

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