秘密の救助者たち(3)
「人の話を聞きなさいよ!?」
美代は一歩前へ踏み込むと、津上先生に被さる箱を両手で掴んで持ち上げた。いびきがぴたりと止み、折り重なる段ボールの隙間から津上先生の頭部が姿を現す。
津上先生は箱の中から腕を伸ばし、眠そうな目元を覆い隠した。唸るような声を発しながら、ようやく少しだけ体を起こし始める。
「……なんか、苦労してるみたいだな。色々と」
何もしていないのに軽い疲労感を覚えつつ、俺は美代の肩にぽんと手を置いた。ほとんど力を入れていないのに、小さな肩が僅かに跳ね上がる。俺が手を離すと、美代はこちらを向いて二、三度瞬きをし、少しの間を置いてから大きく目を見開いて後ずさった。
「い、いつの間に……?」
「最初からいたよ?」
美代の背後に近づいた葵が、首を傾げつつ冷静に事実を告げる。美代が葵のほうへ振り返るのに少し遅れて、津上先生が箱の山から上半身を起こした。
「目先に囚われず、ちゃんと周囲にも目を配れ。些細な見落としが、現場じゃ命取りになるぞ」
「先生にだけは、言われたくありません!」
抑揚のない言葉で話す津上先生に、美代はぴしゃりと言い放った。柔らかそうな白い頬が、少し赤みを帯びているような気がする。美代は拳を握って津上先生から顔を背けたかと思うと、小声でぶつぶつと不平不満をこぼし始めた。
肝心の津上先生はそれを意に介さず、欠伸を一つ放ってから俺へと視線を流す。
「カード」
その短い台詞が自分に向けられたものだと、俺はすぐに判断することができなかった。
「林藤に貰ったんだろ?」
皺だらけの白いシャツに包まれた、津上先生の腕が俺に差し出される。上を向いた指先が小さく前後に動き、俺は何かを要求されているらしいことを理解した。
美代から受け取った、“カード”という名称に当てはまりそうなものといえば、思い当たるものは一つしかない。
俺はズボンのポケットに手を突っ込み、中から硬い板状のものを引き抜いて津上先生に差し出した。今いる場所で美代が落とし、俺に光井君を助ける力を与えた、あの板だ。
「……これ?」
貰ったというより、拾ってから色々あって返しそびれていたそれを、津上先生の手が素早く奪い取った。
「借りるぞ」
緩慢な動きで津上先生が立ち上がり、俺の脇を通ってからテーブルを挟んだ向こう側へと回り込む。そこには古ぼけた事務机があって、上には紙や工具らしきものなどが散乱していた。
津上先生は机の下から椅子を引き出し、ゆっくりと腰掛けて板を机の上に放り投げる。椅子の背もたれには穴が空いていて、中の黄色いスポンジが少しだけはみ出ていた。
「あの、話は……」
「とりあえず、その辺に座ってろ」
津上先生の頭が一瞬だけこちらを向いたけど、椅子の軋む音とともにすぐ元の向きへと戻ってしまった。
俺は仕方なく、先程まで踏み台にしていた椅子を引き寄せてテーブルの前に座る。
美代は大きな溜息をついた後、段ボールの海へと踏み込んで一つ一つ積み上げ始めた。すぐに葵も加勢し、散らかっていた箱があっという間に片付けられていく。
「手伝うよ」と声をかけるべきかと思ったのだけど……迷っている間に、箱は整然と積み上げられてしまった。
やがて作業を終えた美代が、踏み台代わりにしていた椅子を俺の隣に引き寄せて腰掛ける。
手提げ袋をテーブルに置いてから両肘をついて手を組み、その上に顎を乗せて目を伏せる。
一連のやり取りで、疲れてしまったのだろうか。大きな溜息を吐き出す様は、どこからどう見ても憂鬱そうだ。
声をかけるのも憚られて、俺は津上先生の背中に視線を移した。皺々のシャツに包まれた丸い背中の向こうで、金属のぶつかり合う音が小さく鳴り続けている。
「……あれ、何してんだ?」
俺は近づいてきた葵に尋ねる。
葵は津上先生の背中をちらりと見てから、どこか澄ました顔を俺に向ける。
「よく分かんないけど、色々と調整が必要なんだって」
葵は俺の背後を通り抜け、美代の隣で足を止めた。小柄な体が前に傾き、俯く美代の顔を覗き込む。美代はか細い声を漏らしながら、下げたままの頭を僅かに葵のほうへと傾けた。
「じゃ、そろそろ時間だから。またね、センパイ」
津上先生の背中へ目を向けながら、葵が声を抑えて美代に語りかける。
美代は二回ほど瞬きをすると、目を少しだけ大きく開いてゆっくりと体を起こした。疲労の滲む表情で津上先生の背中を一瞥してから、小さく息を吐いて再び葵と目を合わせる。
「付き合わせてごめんね、葵ちゃん」
「いいよ別に。ボクにはこれくらいしかできないし」
葵は疲れた表情の美代に微笑んで見せると、くるりと身を返して美代に背中を向けた。俺にも軽く会釈をしてから、ぱたぱたと足音を立てながら出入り口へと歩いていく。
部活でもあるんだろうと思いながら、俺は小柄な背中をぼんやりと見つめ――
「……葵、ちゃん?」
何気なく聞き流していた美代の台詞が、ふと頭の隅に引っかかる。
意図せず漏れ出た声が聞こえてしまったらしく、葵は足を止めてこちらを振り返った。
「何? どうかした?」
不思議そうに首を傾げる葵から、俺は逃げるように目を逸らす。見た目や一人称から男子だと思い込んでいた、なんて正直に言っていいものなのだろうか。
「……ああ、なるほどね」
言葉に詰まる俺を見て、葵はどこか愉快そうにクスリと笑った。
「大丈夫だよ、よくあることだから。じゃ、またね」
葵はひらひらと手を振って、くるりと背を向けた。小柄な影はあっという間に扉の向こうへと姿を消し、遠のく足音は数秒と経たないうちに聞こえなくなる。
……葵は、俺の勘違いに気づいてくれたのだろうか。
気にしていないとは言っていたけど、このまま何も言わないのは悪い気がする。次に会ったら謝ろうと心に決めたところで、美代が不意に大きな溜息をついた。
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