秘密の救助者たち(1)

 比較的賑やかだった校外とは違い、理科室の前は驚くほど人気ひとけがなかった。


 当然ながら、途中で通りかかった三年生の教室ももぬけの殻だ。


 外から聞こえてくる運動部の掛け声が、校舎中に限界まで薄まりながら広がっていく。それ以外の物音といえば、自分の足音と息遣いくらいだ。


 「……時間、合ってるよな?」


 あまりの静けさに不安を抱きつつも、俺は理科室の扉を開けて中へと踏み込んだ。


 昨日の昼とほぼ変わらない、薬品の臭いが鼻に流れ込んでくる。相変わらず好きになれない臭いだけど、今日はそこまで気にならない。

 むしろ、静かすぎることのほうが気になるくらいだ。


 黒板の上、掛けられた時計に目を向ける。

 時刻は十二時十分。津上先生は昼に来いと言っていたから、時間に関しては問題ないはずだ。


 先生が来るまで、ここで待つべきだろうか。それとも――


 「うわぁっ!?」


 突然、誰かの叫ぶ声と、何かが崩れ落ちたかのような激しい物音が響き渡った。

 予想もしない大きな音に、俺は大きく肩を跳ね上げる。


 「いったぁ……」


 準備室のほうから、絞り出すような声が聞こえてくる。


 扉は閉まっているから、中の様子は全く分からない。声の調子からして大丈夫だとは思うけど、怪我でもしていたら大変だ。


 俺はリュックを机の上に降ろし、準備室の前へと早足で向かう。


 そして、ドアノブを掴もうと手を伸ばした瞬間。


 軋むような音を立てながら、ドアがゆっくりと開かれた。


俺は驚き、素早く手を引っ込める。


 目線の下をうごめく影に気づいて、恐る恐る視線を下に落とす。


 「……誰?」


 子どもっぽさを残した声とともに、大きな瞳がこちらに向けられた。


 小振りな頭を覆う、やや癖っ毛気味の髪。

 長さは耳にギリギリかかるくらいで、頭頂部の一房が特に大きくはねている。


 丸く大きな目を縁取るまつ毛は長く、中性的という表現がぴったりな雰囲気の、小柄な少年のようだ。


 ジャージの胸元に縫い付けられた名札は、一年生を表す黄色で縁取られていた。

 その内側には、黒い文字で「倉地」と書かれている。


 ジャージを着ていなかったら小学校の中学年くらいに見間違えてしまうかもしれない。


 「あ、もしかして美代センパイが言ってた人? だったら、ちょっと手伝ってくれない?」


 俺の答えを待たずに、倉地はドアを全開にして部屋の中へと姿を消した。


 小さな後ろ姿を追って、俺は準備室の中を覗き込む。一歩踏み出した足が床を捉えずに、乾いた音を立てながら僅かに滑った。


 「うわ、何だこれ!?」


 昨日とは似ても似つかない光景に、俺は思わず後ずさりをしてしまう。


 多少ごちゃごちゃしつつも片付いていた昨日とは打って変わって、部屋全体に段ボール箱や紙が散乱していた。床の濃い緑色は全く見えず、嵐の後と言っても信じてしまいそうなほどの惨状だ。


 「多分、どっかに埋まってると思うんだ。本当は、丈瑠センパイが来る前に掘り当てろって言われてたんだけどね」


 倉地はジャージの袖を捲り上げ、紙を遠慮なく踏みつけながら準備室の奥へと入っていった。その様子は、未開の地に踏み込む探検隊そのもので、俺は軽い目眩を覚えて頭を押さえた。


 普通はこうなる前に、多少なりとも掃除をしようと考えるものじゃないだろうか。


 「えっと……もしかして、美代の仲間、とか?」


 俺は数歩離れた場所で屈む、小さな背中に向かって尋ねた。答えを待つ間に、紙を足でかき分けながら意を決して準備室へと踏み込む。


 「そういうことになる、かな。ボクは倉地 葵くらち あおい。よろしくね、丈瑠センパイ」


 こちらを振り返った葵は、目を少しだけ細め笑った。とりあえず歓迎されているらしいことが分かって、俺は少しだけ緊張を緩める。


 「ところで、何を探してるんだ?」


 俺は足元に積もった紙を数枚手に取り、角を揃えてから床に打ちつけた。よく見れば理科の問題が印刷されたものに加え、細かい文字がびっしりと書かれたものや設計図らしきものまで混ざっている。


 「津上先生」


 「……は?」


 分かる範囲で分別しようとしていた俺は、予想もしていなかった回答に思わず手を止めてしまった。


 「どっかに埋まってるのは確実なんだけど、見つけるのが結構大変でさ。これがしょっちゅうだから、苦労してるんだよね」


 葵は足元に溜まっていた紙を一まとめにし、数回床に打ちつけてから脇に置いた。


 「……世話の焼ける先生だな」


 大きな溜息混じりに呟いた俺は、角が奔放に飛び出た紙束に目を落とす。規則正しく並んだ文字の中にはたびたび難しそうな文言が挟まっていて、授業で使うプリントよりもどこか堅苦しい雰囲気を帯びていた。


 下のほうにある簡素な地図を除けば、絵らしきものも全くない。乱雑に散らばっている割には、かなり重要そうな書類に見えるのだけど……。


 「あそこ、見てもらってもいいかな? さっき覗こうとしたら届かなくて、落っこちちゃったんだよね」


 円形に覗く緑色の中心で、葵は紙束を片手に立ち上がった。壁の一角を指差し、どこか澄ましたような表情でこちらを振り返る。


 葵が指し示す先には、二つの薬棚が間隔を開けて置かれていた。その間に、段ボール箱が高く乱雑に積み上げられている。高さは棚より少し低いくらいで、俺でも踏み台なしでは手が届きそうにない。


 箱は通路にまではみ出していて、その下には丸椅子が一つ、テーブルから離れた位置にぽつんと置かれていた。


 さっきの物音は、葵があそこから箱の向こうを覗こうとしたときのものだったらしい。確かに小柄な葵では、上部に手をかけることすら難しそうだ。


 俺は頷き、できるだけ紙を踏まないよう気をつけながら壁の前に立った。


 近くにあった丸椅子を引き寄せ、上履きを脱いでから慎重に上へ乗る。

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