騒がしい日常(3)

 「十四ってことは……あれから、もう二年か。早いもんだな」


 階段を半分ほど登りきったところで、松ノ木さんの声が耳に入った。


 さっきまでの騒がしさが嘘のように、落ち着いていて寂しげな声だ。俺は思わず足を止め、じっと耳を傾ける。外を走る車の音が、この場の静けさを物語る。


 「……お前、本当にこのままで大丈夫なのか?」


 がさ、と新聞紙がなびく音がした。空気がぴんと張り詰めて、どこか息苦しい雰囲気が漂い始める。


 「沢渡から聞いたぞ。昨日、また無茶をしたらしいな?」


 「……大したことじゃない」


 穏やかに語りかける松ノ木さんを、親父は無愛想に突き放した。内容からして、昨日の火災現場での話をしているのだろうか。何があったのかは知らないけど、おそらく怪我をしかねないほどの危険な状況があったのだろう。


 今ひとつ現実味を感じられなかった事実が、急に身近なものへと変わる。親がそんな場所に赴いたと聞いて、不安にならないわけがない。


 俺は階段に腰を下ろし、大人たちの会話へ静かに耳を傾けた。この場所は日がほとんど当たらないから、床の冷たさが足の裏を伝って全身にしみる。


 「お前がそういう奴だってのはよく知ってる。けどな……丈瑠にとって、肉親と呼べるのはお前だけなんだぞ。何かあったらどうする気なんだ?」


 「……そうならないようにするだけだ」


 「俺は万が一の話をしてるんだよ」


 松ノ木さんの声色が変わった。人懐っこい雰囲気が完全になくなり、落ち着いた声ながらどっしりとした凄みすら漂っている。まるで、子どもを叱りつける厳格な父のようだ。顔は見えないけど、きっと相当に真剣な表情をしているに違いない。


 救助の現場に絶対はない。知らないとは言わせない。きっと松ノ木さんは、言葉にせずともそう語っている。


 「お前も親なら、もう少し現実的なことを考えたらどうなんだ。例えばほら……別の仕事か、新しいパートナーを見つけるとかさ」


 松ノ木さんが言い終わるのと同時に、硬い木と陶器がぶつかり合う音が鳴った。静けさを破る硬質な音に、俺は思わず身を竦ませる。


 「そのつもりはない」


 親父はきっぱりと言い切った。同じ部屋に身を置いていると錯覚しそうなほど、言葉の一つ一つがはっきりと聞こえた。


 少しの間をおいて、松ノ木さんの長く大きな溜息が聞こえてくる。吐き出された重い息はリビングを出て、俺がいる場所まで暗い色に染めていく。


 俺はゆっくりと立ち上がり、足音を殺して階段を駆け上がった。自分の部屋へと戻り、扉を後ろ手で閉める。扉にもたれかかり、胸に溜まった感情を溜息とともに吐き出した。


 親父を尊敬していた時期が、全くなかったわけじゃない。


 少なくとも母さんが生きていた頃は、危険を顧みず人を助ける親父を誇らしく感じていた。同級生から憧れの目を向けられることもあったし、それを嬉しいと感じていたのも事実だ。


 だけど、今はそんな単純な考えなんてできやしない。松ノ木さんの言うとおり、もう俺にとっての親は親父しかいないのだから。


 もしも、仕事中に何かがあったら……俺は、親父に助けられた人のことを、恨まずにいられるだろうか。そんなことはないと言い切れない自分が、ひどく腹立たしくてたまらない。


 「……仕事馬鹿が」


 俺は扉に両手をついて、勢いよく姿勢を正した。感情に任せて吐き出した言葉に、少し遅れて後悔の念が湧き上がる。


 俺に、親父を責める資格なんてない。分かってはいるのだけど、もやもやとした気持ちは収まらない――


 体操着と学校指定のジャージをタンスから引っ張り出し、寝間着の首元を掴んで乱暴に脱ぎ捨てる。



 松ノ木さんが帰ったのは、ちょうど俺が着替えを済ませて、部屋から出ようとしたところだった。


 俺は寝室へ向かう親父とすれ違いながらリビングへ下り、朝食をとってから再び部屋に戻る。


 昼までまだ時間があるとはいえ、買い物に行けるほどの余裕はない。通学用のリュックに最低限の荷物を詰め込んだ後は、宿題や洗濯をして時間を潰すほうがいいと思ったのだ。


 そういえばイチゴミルクをしまったとき、冷蔵庫の中身が少し心許なかった気がする。親父は冷蔵庫を開けていないはずだから、多分このことに気づいていないだろう。


 校則で禁止されているから、学校へお金を持ち込むことはできない。買い物に行くのなら学校での用事が済んだあと、財布を取りに一度帰宅しなければならない。


 面倒ではあるけど、下手なことをして先生に見つかれば、もっと面倒なことになってしまうから仕方ない。


 貴重な休日なのに、どんどん自由時間が少なくなっていく。考えただけで気が重くなって、俺は大きな溜息をついた。明日は親父がいないから、せめていつもより長く寝てやろうと心に決めた。



 昼食を済ませたあとは、最低限の荷物しか入っていないリュックサックを背負って家を出た。


 玄関の戸を開けた瞬間、くぐもっていた自動車の走行音が鮮明になって、俺の周囲を包み込んでいく。俺は玄関の戸を施錠し、鍵をリュックのポケットにしまってから学校に向けて歩き始めた。


 俺たちが通う深暮中学校は、家から歩いて約十五分くらいの距離にある。住んでいる場所によっては自転車通学が認められるけど、俺の家はそこまで離れていないから、徒歩での通学になる。


 家を出てひたすら南に進み、花吹公園の脇を通り抜ける。

 休日の昼間だからか、公園内は昨日よりも人が多くてにぎやかだ。芝生に覆われた丘の上で、小学生くらいの男の子二人がボールを投げ合って遊んでいるのが見える。


 そういえば、雛香ちゃんと光井君はどうなったんだろう。


 津上先生は大丈夫だと言っていたけど、こちら側に戻ってから一度も顔を合わせていないから、できればこの目で二人の無事を確かめたい。

 でも考えてみれば、俺は二人がどこの小学校に通っているのかも聞いていない。もう一度会うのは難しそうだから、無事が分かっているだけで十分と思うしかないだろう。


 高架下を抜けると、自動車が行き交う道路の向こうに白い校舎が見えてくる。


 俺がいる場所も含めた周辺の歩道には、同じような紺色のジャージを着た人影がいくつも散らばっていた。休日とはいえ、部活などのために学校へ来る生徒は少なくない。


 俺は信号が変わるのを待ってから横断歩道を渡り、同じ服装の集団に紛れて校門を潜った。

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