騒がしい日常(2)

 「おーっす! 宣言通り来てやったぞ!! 」


 野太い声を頭上から叩き落とされ、俺は目を閉じて身を縮ませた。朝っぱらから浴びるには大音量過ぎる声に、残っていた眠気が残らず吹き飛ばされる。


 「……ん?」


 声の主が、一歩近づいてくる。俺は背中を丸めたまま、ゆっくりと目を開けて上を見る。


 角ばった無骨な頭部と、針金のような黒い短髪。

 訪問者の正体を悟ったと同時に、俺は肩をがっしりと掴まれて引き寄せられる。


 「お前、丈瑠か!? 随分と大きくなったなぁ!! いまいくつだ? ちゃんとご飯食べてるか!?」


 「こ、今年で十よ……痛てて!?」


 左肩を掴む手が離れたかと思うと、今度は頭をがっしりと捉えられてしまった。これでは、質問に答える余裕なんてない。距離が近いせいか、普段ならあまり気にしない汗の臭いが鼻の奥を刺激する。


  「ま、松ノ木まつのぎさ……ちょ、一旦離して! お願いだから!」


 「少しは親父に似て……いや、やっぱ母親似だな! ところで弘正ひろまさはどうした? まさか寝てんじゃないだろうな!?」


 「起きてます! ていうか、多分さっき帰ってきたばっかりで……ってそれより! お願いだから、静かにして下さいって!」


 俺は松ノ木さんの手を両手で掴み、どうにかして払いのけようと左右に振る。大柄な影の後ろで、おばさんが奇異な物を見るような顔で通り過ぎて行くのが見えた。


 手遅れだ……と思った矢先、松ノ木さんの頭へ何かが振り下ろされた。「いてっ」と声を漏らしながら松ノ木さんが手を離したことにより、俺はようやく屈強な腕から解放される。


 「隆也たかや、静かにしろ」


 いつの間にか、俺の背後に親父が立っていた。手には、筒状に丸めた新聞紙を持っている。松ノ木さんの頭を叩いたのは、どうやらこれらしい。


 「……だから、出なくていいと言ったんだ」


 溜息とともに、親父が俺を見下ろした。平均よりかなり高い身長も相まってか、その姿には有無を言わせない迫力がある。一緒に暮らしている俺でさえも、少しばかり怯んでしまいそうなほどだ。


 「つれないこと言うなよ。俺とお前の仲だろ?」


 「……妙な言い方をするんじゃない」


 溜息混じりに言った親父は向きを変え、半開きだった引き戸に手を押し当てて全開にした。そのまま玄関を抜け、薄暗いリビングへと戻っていく。


 松ノ木さんは深暮市消防本部のレスキュー隊員で、親父とは新米時代からの長い付き合いだと聞いている。親父にとっては数少ない友人の一人らしく、俺が物心ついたときから、たびたびこうして押しかけてくるのだ。


 とはいえ、性格は驚くほど真逆だ。

 いつも明るく、時には嵐のように豪快で、やたらと人懐っこくてよく笑う。どうして無愛想な親父と親しくなれたのかは、俺にとって今も永遠の謎だ。


 「急に来られても、お茶ぐらいしか出せませんけど……」


 「構わねえよ。それに、今日これがあるしな」


 松ノ木さんは歯を覗かせながら笑顔を浮かべ、手にしていた袋を俺の前に掲げて見せた。半透明の白いビニールの向こうに、パステルピンクの紙パックが透けて見える。妙に丸っこく大きな文字で、「イチゴミルク」と書かれているのが見えた。


 「二つ買ったんだ。親父と一緒に飲めよ」


 松ノ木さんは袋の中に手を突っ込み、ピンク色の陰に隠れていた紙パックを鷲掴みにして俺に差し出した。ハートや宝石のイラストを散りばめた、妙に可愛らしい物体が松ノ木さんの手から落ちる。俺が慌ててそれを受け止めると、松ノ木さんは目を細めてにっこりと笑った。


 「ど、どうも……」


 完全にペースを握られた心地になりながら、俺はぺこりと頭を下げる。松ノ木さんはその隣を通り抜け、リビングへと踏み込んでいく。すれ違いざまに背中を二回ほど叩かれ、危うく前のめりに転びそうになってしまった。本人は軽く叩いたつもりだろうけど、鍛えられた腕力は俺が受け止めるには重すぎる。


 松ノ木さんを呆然と見送ってから、俺は自分の手の中にある物体へと目を落とした。


 甘いものは嫌いじゃない。むしろ好きなほうだけど、親父がこういうものを飲んでいる姿がちょっと想像できない。

 後で一応、飲むかどうか訊いてみようと思いながら、とりあえず冷蔵庫に入れておくことにしてリビングへと向かう。


 松ノ木さんはテーブルを挟んで、親父と向かい合う形で椅子に腰かけていた。背もたれに身を委ねて肩を大きく開き、両腕をだらりと下に垂らして寛いでいる。自宅のような寛ぎっぷりは、最後に会った日から何一つ変わっていないようだ。


 俺は親父の背後を通り抜けて冷蔵庫を開けると、ドアポケットの空いたスペースにパック飲料をねじ込んだ。三秒とかからない短時間だったにも関わらず、冷気が身にしみて身震いする。いつもなら丁度いい体温を保ってくれるお気に入りのパジャマも、今日は少し頼りない。


 「なあ丈瑠、今日は久しぶりに、散歩でもどうだ?」


 身を縮ませながら扉を閉めた直後に、松ノ木さんが俺を呼んだ。振り返った先にはピンク色の紙パックを手にした松ノ木さんと、仏頂面でマグカップに口をつけた親父がいる。


 「えっと……俺、今日は学校に行かなくちゃいけないんで」


 「なんだ、部活か?」


 「……まあ、そんなとこです」


 昨日の出来事について話すべきか少し迷ったけど、とりあえず黙っておくことにした。本当は今日の部活なんてないけど、そんなことを松ノ木さんが知るはずもない。


 たとえ用事がなかったとしても、散歩に付き合う気はなかった。はじめのうちはのんびりとした散歩でも、途中から本格的なランニングになることを俺は嫌というほど知っている。実際、小学生の頃に軽い気持ちでついて行って、へとへとになるまで走らされたことがあったのだから。


 ちなみに、松ノ木さんが職場でも体力オバケで有名だと知ったのは、それから少し後のことだった。


 確かに二十四時間勤務後の親父は、帰宅してすぐに寝室へ行ってしまうことが多い。仕事中にも仮眠の時間はあるとはいえ、いつ出動になるか分からない環境では熟睡なんてできないからだ。

 仕事の直後でも元気なのは、たぶん松ノ木さんくらいしかいないんじゃないだろうか。


 (……ていうか、親父まで連れ出す気じゃないよな)


 さすがにそれはないだろうと言い聞かせ、俺は松ノ木さんの背後を通り抜けて廊下へと出る。 


 「じゃ、着替えてきます」


 松ノ木さんのおかげで眠気は吹き飛んでいたけど、寝起きの体はまだ少し重い。俺は手すりにつかまり、足を引きずるようにしながらゆっくりとした動作で階段を上っていく。

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