騒がしい日常(1)

 ――空気が、暖かい。


 おぼろげな意識の中で、俺は瞼の向こうに優しい光を感じた。


 閉じた窓の向こうから、小鳥のさえずりが聞こえてくる。光を浴びた体がじんわりと温かくなって、目覚めかけた意識を再び眠りに誘ってくる。


 もう少しだけ、あと五分でいいから寝ていたい。


 俺は目を閉じたまま、仰向けになっていた体を窓側へ傾ける。胸の辺りまで下がっていた布団を頭まで引き上げ、意識を手放しかけた直後……。


 (っ!?)


 突然、全身を包んでいた重みが勢いよく取り払われた。体が軽くなった代わりに、心地良い温もりまでもが一気に消え失せる。


 今日は少し肌寒い。布団の中で適度に温まっていた体は、僅かな体温の低下もひどく不快なものと捉えたようだ。寝起きの心に、ほんの少しながら苛立ちが滲む。


 俺は呻きながら仰向けになり、眠い目を擦ってからゆっくりと開いた。ぼやけていた風景が徐々に鮮明になって、こちらを覗き込む人影を浮かび上がらせていく。


 鷹のように鋭い目と、細身ながらも引き締まった輪郭。嫌というほど見知った、馴染みの顔だ。


 「起きろ。今何時だと思ってる」 


 よく通る低い声と共に、鋭い眼差しが俺に向けられた。いつも眉間に寄っている皺が、今日は一段と濃い気がする。短く切りそろえられた髪が水分を含んでいるから、帰宅してすぐにシャワーでも浴びたんだろうか。


 右手には、ついさっき俺から奪い取った布団が握られていた。力なく垂れた布団を俺の足元に放りながら、再び鋭い目が俺を見下ろしてくる。


 「……今起きようと思ってたんだよ」


 頭上の男――親父の顔を見ないようにしながら、俺は重い体を起こした。意識がはっきりしないまま、少しふらつきながらベッドの脇に立つ。


 ちらりと壁の時計を見ると、時刻は既に十時を過ぎていた。一瞬見間違いかと思い、現実であることを悟った瞬間、今まで経験したことが無いほどの睡眠時間にぎょっとする。何時頃眠ったか定かではないとはいえ、これでは怒られるのも当然だ。若干の気まずさを覚えながら、俺は親父の隣を通って部屋を出る。


 何気なく吸い込んだ息に、焦げ臭い空気が混じる。

 夜に聞こえたサイレンは、やはり夢ではなかったようだ。


 火災現場で煙や煤に触れれば、どうしても体中に臭いがついてしまう。シャワーを浴びたところで簡単に取れるものじゃないと、昔の親父は無愛想ながら教えてくれたものだ。


 でも、今の親父は仕事の話なんて全くしない。


 元々口数は少ない方だったけど、母さんがいなくなってからより一層無口になった気がする。


 おかげでこの家も、随分と静かになってしまった。一緒にいても会話は盛り上がらないし、たまに口を開いたと思ったら小言を聞かされたり。何気ないひと時の空気がいちいち重くて、息苦しさを感じる程だ。


 部屋を出て右手にある階段を下り、すぐ左手にある引き戸を開ける。その先は洗面所になっていて、正面には風呂場へと続く扉がある。最後に使われてからそれほど経っていないらしく、空気が他の場所よりも湿っぽい。


 蛇口をひねり、溢れ出た水を両手で受け止めて顔面に叩きつけると、適度な冷たさが眠気を一気に吹き飛ばした。その感覚がとても気持ち良くて、二度、三度と続けて水を被る。


 手を額に添えて前髪をかき上げ、目を開けて鏡に映った自分の顔を見て――


 「……え」


 目に映ったものが信じられなくて、俺は何度も瞬きを繰り返した。


 異空災害のことで忘れかけていたとはいえ、俺は昨日の朝に木から落ちて怪我をしたはずだ。昨日、シャワーを浴びた後に絆創膏を剥がしたことは寝起きの今でもしっかりと思い出せる。


 なのに、鏡に映る自分の顔には……傷がなかった。


 擦りむけていたはずの額は、いつもと全く変わらない。傷のあった場所を撫でてみたけど、ごく普通な肌の感触以外は何も感じられなかった。まるで、始めから怪我なんて存在しなかったかのようだ。


 傷のあった箇所を何度も擦っていると、部屋の外から階段を踏みしめる音が聞こえてきた。


 俺は棚からタオルを取り出し、素早く上下に動かして顔を拭う。使い込まれたタオルは繊維が硬くなっていて、地肌にヤスリをかけたかのような痛みが生じた。洗ったら雑巾にしようと思いながら、タオルを洗濯物用の籠に放り込む。


 髪を水で濡らし、適当に整えてから洗面所を出る。リビングに向かおうと一歩踏み出した直後、ドアチャイムの澄んだ機械音が家中に響き渡った。


 「出なくていい」


 リビングの椅子に座った親父が、こちらを見もせず無愛想に言った。いつの間に用意したのか、テーブルの上では緑茶の入った小ぶりなマグカップが湯気を立ち上らせている。


 「そういう訳にもいかねーだろ」


 郵便や宅配の人だったらどうするんだと思いながら、俺は親父の忠告を無視して玄関へと早足で向かった。裸足のまま引き戸の前に立ち、眩しい朝日に目を細めながらゆっくりと開ける。


 そして、人一人が通れるほどの隙間が出来たと思った瞬間……妙に大きな影が、俺に覆い被さってきた。どこか嫌な予感がしつつも、俺は顔を上げて――

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