嵐の予感

 湿った土の匂いが鼻を抜けるのを感じて、俺はゆっくりと瞼を開いた。


 頭の奥が、ズキズキと痛い。重い体をわずかに捩ると、背中に硬いものが食い込んでくる。どうやら俺は、どこかで仰向けになっているようだ。


 柔らかな風が吹くと同時に、頭上でカサカサと乾いた音がした。頬を撫でる空気は心地よくて、淀みや不快な臭いは微塵も感じられない。


 ぼんやりと宙を見つめていると、顔の上に薄く小さな何かが落ちてきた。俺は開きかけていた目を固く瞑り、落ちてきた物体を払いのける。物体が鼻の上を掠めた瞬間、植物特有の苦い臭いが流れ込んでくるのを感じた。


 ……木の葉だ。


 俺は目を開いて、ゆっくりと上半身を起こした。地面についた手に尖った石が食い込み、痛みに顔をしかめながら辺りを見回す。


 真っ直ぐに伸びた木の隙間から、淡いオレンジ色を帯びた紺色の空が見える。白い筋のような雲の隙間からは星が顔を覗かせ、光に照らされた宝石のように瞬いていた。


 あの異空間に、植物らしきものは何一つ見当たらなかった。

 空は灰色の雲に埋め尽くされ、星なんて全く見えなかったはずだ。


 (戻ってきた……のか?)


 よろめきながら立ち上がると、足元でパキパキと乾いた音が鳴った。思わず身を固くしながら視線を落とし、音の正体が小枝だと知って安堵する。


 いつの間にか、あの不思議な格好ではなくなっていた。普段と何一つ変わらない、長ズボンとスニーカーを身に付けている。ジャージの上着がないことに気付いて、雛香ちゃんを助けるために脱ぎ捨ててしまったことを思い出した。


 緊迫感を含んだ高音が鳴り響き、同時に視界の端を赤い光が過ぎった。光は木の幹に沿って駆け抜け、どこかへ消えてはまた現れてを繰り返している。


 音のする方へ振り返ると、公園の駐車スペースに大きな白い車が停まっているのが見えた。車体の側面には細い赤色のラインが引かれ、堅い雰囲気の字体で「深暮市消防本部」と書かれて――

 

 そこまで確認した俺は、慌てて木陰に身を隠した。少しだけ顔を出し、赤いほうの車が来ていないことを確かめてから、ほっと胸を撫で下ろす。


 救急車がゆっくりと動き出す。狭い駐車場にも関わらず、滑らかかつ巧みな動きであっという間に抜け出して道路へと出て行く。そのまま徐々にスピードを上げながら、白い車体は住宅地の角を左に曲がって消えて行った。歌うようなリズムで鳴り続けるサイレンの音は、少しずつ遠のきながらもはっきりと聞こえてくる。


 俺は顔を元の位置に戻し、丘の上に目を向けた。穴の出現と同時に消えたはずの木が、何事もなかったかのように風に吹かれて揺れている。


 静かな林の中で、俺は今までの出来事を振り返った。川に落ちて流されたこと、美代のこと、あの人と似た銀色の鎧……。本当は何もかも、夢だったんじゃないだろうか。


 「そういえば、美代は――」


 「ここにいたのか」


 低い男の声にぎょっとして、俺は座ったまま後ずさった。背中に太い木がぶつかり、勢い余って後頭部を軽くぶつける。

 

 あれ、この声……なんか聞き覚えがあるような。


 ふと冷静になって顔を上げた俺は、驚きのあまりあんぐりと口を開けた。


 「津上……先生……?」


 見上げた視界に映ったのは、街灯に照らされた一人の大人の影だった。


 鳥の巣を思わせるもじゃもじゃ頭に、少々不健康そうな色白の肌。

 こけた頬には深い陰が落ち、スクエア型の黒縁眼鏡から覗く目は、昼間と同じくどこか眠たそうだ。


 緩くネクタイを結んだ白いシャツも、黒いズボンも、どんな使い方をしたらそうなるんだと問い詰めたくなるくらい、深い皺が刻まれている。普段なら目にするたび、アイロンをかけてやりたい衝動に駆られるのだけど、今はそれどころではない。

 

 「林藤は付き添いだ。色々と伝えなきゃならんことがあるからな」


 そう言って、津上先生はズボンのポケットに手を突っ込んだまま、救急車が停まっていた場所を顎で示す。

 確かに救急車には、状況を説明できる人が必ず同乗していくものだけど……。


 「雛香ちゃんと、光井君は……?」


 恐る恐る尋ねると、津上先生は目を伏せて小さく息を吐いた。


 「軽い低体温と、頭を怪我してるみたいだったが……二人とも、命に別状はないそうだ」


 「……よかった」


 ほっと胸を撫で下ろすと同時に、強い疲労感が押し寄せてきた。背後の木に身を委ねて、両腕を、だらりと地面に垂らす。


 「家は近いのか? しんどいなら、送ってやってもいいが」


 「いや、別に……」


 大丈夫、と半ばうわ言のように俺は呟く。本当はあまり大丈夫とも言えないのだけど、ここから家までは公園を出て少し歩くだけだ。先生に送ってもらわなくても、多分なんとかなるだろう。


 「なら、これ以上暗くなる前にさっさと帰れ。……それと、こいつを預かってる」


 一歩俺に近づいた津上先生が、二つの荷物を目の前に置いた。一つは俺の通学用リュックで、もう一つは黒いビニール袋だ。


 すっかり存在を忘れていたリュックをたぐり寄せ、ビニール袋の結び目をほどく。魚や泥が混ざり合ったかのような、不快な臭いが溢れ出て、俺は思わず顔をしかめた。


 紛れもなく、あの異空間で嗅いだ臭いと同じものだ。俺は恐る恐る中に手を入れ、中身を掴んでそっと引っ張り出す。


 「……いつの間に」


 出てきたのは、雛香ちゃんを助けるときに脱ぎ捨てたジャージだった。水分をたっぷりと含んでいるせいで想像以上に重く、危うく手から滑り落ちそうになる。少し躊躇いつつも裾を軽く絞ると、再び嫌な臭いの水があふれ出た。

 ……この臭い、本当に洗濯で落ちてくれるだろうか。


 「お前を助けに行く前に回収しといたんだと。次会ったら礼を言っとけ」


 少しばかり不安になりながらも、俺は頷く。ジャージ一着とはいえ、新たに買うとなればそこそこの出費だ。洗濯して元通りになる可能性があるのなら、試さない理由はない。こうして戻ってきてくれただけでもありがたいのだから、美代には感謝するほかないだろう。


 「じゃ、俺は行くぞ。まだまだ、やることは残ってるんでな」


 「あ、ちょっと……!」


 だるい体を起こしつつ、俺は津上先生を呼び止める。


 津上先生には、聞きたいことがたくさんある。異空災害のことや、ADRASのこと。美代のことや、八年前のあの人のこと……。


 津上先生はぴたりと足を止めて、静かにこちらを振り返った。感情の薄い顔が、月明かりに照らされてぼんやりと浮かび上がる。


 「……明日の昼、理科室準備室に来い。そこで全部教えてやる」


 それだけ言って、津上先生はすたすたと立ち去ってしまった。落ち葉を踏む乾いた音と共に、猫背気味の背中がどんどん遠ざかっていく。


 追いかけようとしたけど、なんとか立ち上がったときには、既に津上先生の姿は見えなくなっていた。俺は深い溜息を一つついて、木二もたれかかって空を仰ぐ。

 

 あいつは……美代はいつから、あんなことをしているんだろう。


 疎遠になっていたとはいえ、俺は何一つ知らなかった。この八年間に一体何があったのか、考えても分からないし、考えれば考えるほど不安な気持ちになってくる。


 遠くでずっと鳴り続けていたサイレンの音が、不意にぴたりと止んだ。おそらく、無事に病院へたどり着いたのだろう。


 公園は一層静けさを増し、付近を走る車の音が微かに聞こえるだけになる。一人になったせいか、音のない空間がいつも以上に心細く感じた。


 「……帰るか」


 俺は呟くと、もやもやとした気持ちを抱えたまま家に向かって歩き出した。

 少なくとも今の俺には、光井君たちの無事を願うことしか出来そうにない。重い足を引きずるようにして、ゆっくりと家への道を歩きだす。


 ふと見上げた夕日には、黒くて厚い雲が覆い被さっていた。

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