秘められた力(1)
足元で、二つの波が激しくぶつかり合う。今までに聞いたことのない、咆哮に似たおぞましい音が上へ上へと迫ってくる。
冷たい恐怖が、全身を何度も駆け巡る。
俺は歯を食いしばり、湧き上がる感情を抑え込んでただひたすらに上を目指した。このまま空へ逃れれば、少なくとも水の脅威はやり過ごせる――
「っ!?」
そんな考えに至った、まさにその時だった。
突然、視界が真っ白に埋め尽くされた。
何の前触れも、異変に気づく暇もなかった。
時間を、いくらか飛ばしてしまったかのように……気がついたときには辺り一面が真っ白に染まっていたのだ。
目元に濃い煙が張りついたかのようで、ほんの少し先すら全く見えない。首を左右に振り、手で目の前を払ったりもしてみたけど、状況は全く変わらなかった。全身にまとわりつく空気は上昇するにつれて、刺すような冷たさを増していく。
俺は上昇を止めて空中に制止し、ぐるりと周囲を見回した。ぴんと張っていた翼が垂れ下がり、風を受けてマフラーのように揺れる。放たれる赤い光は、白い煙に遮られて目の前すらも照らし出せずにいた。
「何だ、これ……」
視界を奪われた恐怖からか、自分の声が震えていることに気付く。
多分、ここは霧の中だ。遥か上空に立ち込めていたはずの霧が、いつの間にかかなり低い位置まで下がってきていたらしい。
追い詰められていたとはいえ、大して確認もせず上へ逃げたからだろうか。もっと注意を払うべきだったと、俺は自分の判断を後悔した。
「美代……」
俺は完全に見失ってしまった美代に向けて、すがるように呼び掛ける。
頼れるのは、あいつしかいない。今までどうやって会話をしていたのかは分からないけど、俺一人ではこの状況を切り抜けられる気がしない。
腕の中が小刻みに震えていることに気付き、俺は顔を下に向けた。
雛香ちゃんは背中を丸め、目を閉じたままじっとしている。自分の身体を抱え込むように、両腕を胸の辺りで交差させて――
そこまで理解して、俺は大きな過ちを犯してしまったことに気付いてしまった。
雛香ちゃんの衣服はまだ濡れていて、裾からは雫が滴り落ちている。そんな状態で強い風を浴び続けたら、体温の低下は避けられない……空気の冷えを感じた時点で、気付くべきだった。
いや、考えてみれば、光井君を助けた辺りから雛香ちゃんの口数が少なくなっていた気がする。その時点で、違和感に気付いていれば……。
「丈瑠、降りて! こっちまで来てっ!」
耳を突き刺す美代の叫びが、俺を現実に引き戻した。
「もう少しで……あとちょっとで帰れるから! だから、早く……っ!」
美代の叫びが悲痛さを増していく。足元から迫る水の音が、徐々に大きくなってくるのを感じた。
水が、近くまで来ている。深い霧に阻まれて、何がどうなっているのかさっぱり分からない。
こっちまで来いと言われても、どこにいるのか分からない。闇雲に降りた先が荒れ狂う濁流だったとしたら、間違いなく水中へ引きずり込まれてしまうだろう。
だからといって上に昇れば、雛香ちゃんを更なる低温にさらすことになってしまう。俺ですら寒さを感じているのだから、下手をすれば雛香ちゃんの生命に危険が及びかねない。横に進んでも、崖があるから行き止まりだ。
俺は必死で考えを巡らせた。美代とはぐれてしまった今、状況を打開できる可能性があるのは俺だけだ。
だけど、いくら考えても答えは出てこない。こうしている間も水の音はどんどん大きくなって、周りの音を喰い尽くしながら迫ってくる。
(駄目だ……もう駄目だ……!)
俺は雛香ちゃんを抱えたまま、背中を丸めて顔を伏せた。このまま留まっていれば、いずれ二人揃って水に呑まれる。逃げたとしても、助かる保証はほとんどない。
両手を握り込み、固く目を閉じる。水の音が、もうすぐそこまで迫っている――
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