覚醒(3)

 「ねえ、どうして……?」


 美代が光井君の背中に腕を回しながら、震える声で俺に問いかける。その後ろでは雛香ちゃんが、美代の背中に両手を添えて光井君の様子を窺っていた。


 俺は光井君を美代に委ね、息を深く吸い込んでからゆっくりと吐き出した。口元はマスクに覆われているけど、息苦しさは全く無かった。むしろ、生身でいた時よりも呼吸が楽になった気がする。


 「えっと……今日の昼、お前が変な板を落として、それを拾って――」


 「お、落とした?」


 記憶を辿る俺の声を、美代が妙に甲高い声で遮った。元々大きめな目が、さらに丸く見開かれる。生身の時は見えなかった美代の表情が、今はバイザーの向こうに透けてはっきりと視認できた。


 「……もしかして、気付いてなかったのか?」


 美代はうなだれ、弱々しく首を縦に振った。たまにちょっと抜けているのは相変わらずだな、と俺は心の中で密かに思う。


 「私の馬鹿……なんでよりによって……」


 消え入りそうな声で美代は嘆く。詳しい事情は知らないけど、少なくとも俺に渡すつもりで持っていた物ではなかったようだ。


 「な……なんか、ごめん」


 事情はさっぱり分からないけど、とりあえず謝っておくことにする。美代は大きな溜息をついて、何か言いたげな表情で顔を上げる。


 だけど、美代が声を発するよりも早く。


 足下から、地響きにも似た音が這い上がってきた。


 俺は咄嗟に身を固くし、神経を研ぎ澄まして周りを警戒した。


 この場所に放り込まれてから、一つ学習したことがある。良くないことが起きるときは、いつもこんな感じの音が鳴るのだ。


 遥か下流から、何かがこちらに向かってくる。巨大な灰色の塊が、白い泡を撒き散らしながら川を這い上がって来る。


 ぞっとするほど冷たい風が、首筋を舐め上げていく。


 迫ってくるのは……水だ。


 川の水が地形を無視して、巨大な生物のように俺たちを呑み込もうとしている。   


 雛香ちゃんが声にならない悲鳴を上げた。美代の背中にしがみつき、額を寄せて固く目を閉じる。

 

 「こっちだ!」


 俺は咄嗟に声を張り上げた。雛香ちゃんははっと目を見開き、美代の背中から手を離して俺のもとへ駆け寄ってくる。その直後に美代が光井を抱え上げて踵を返し、バイクめがけて駆け出した。


 「その子をお願い!」


 遠ざかる美代の姿とは裏腹に、はっきりとした声が聞こえてくる。俺は雛香ちゃんを抱き寄せて抱え上げると、地面を蹴って空高く飛び上がった。


 直後、灰色の濁流が足元を一瞬で埋め尽くした。水圧で岩が砕け散り、石礫となって俺の脚に打ち付けられる。


 ごぽ、と足元で嫌な音がした。


 俺は雛香ちゃんを抱える腕に力を込め、体を右に捻りつつ上流へと前進を始めた。それからほんの少しだけ遅れて、大量の水が柱のように噴き上がる。柱の根元にあったであろう岩が粉々になり、小石の雨となって俺たちに降り注いだ。雛香ちゃんに当たらないよう、俺は背中を上に向けて飛行を続ける。


 天にすら風穴を空けてしまいそうな勢いで、水柱は次々と出現する。まるで飛行する俺を、撃ち落とさんと追いかけて来ているかのようだ。


 本当にそのつもりなのかもしれない、とさえ思ってしまう。岩が砕けるほどの水圧だ。あんなものが直撃したら、骨折では済まないことくらい容易に想像できる。


 「丈瑠、聞こえる!?」


 どこからか美代の声がする。前方に注意を払いつつ辺りを見回すが、それらしき姿は見当たらない……と思った直後に、目の前で大量の水しぶきがはじけ飛んだ。中から銀色の物体が出現し、流れをものともせずに水面を駆け抜けていく。


 「私についてきて! このまま脱出するから!」


 銀色の物体がスピードを上げた。ほんの一瞬、尾を引く光の中に美代と、後部座席で仰向けにされた光井君の姿が見える。振り落とされないようにという配慮だろうか、腰の辺りをベルトで固定されていた。


 「え、ちょ……うわ!?」


 慌てて美代たちを追いかけようとした俺は、背中に強い衝撃を感じてバランスを崩してしまった。視界が激しく回転し、体が灰色に向かって吸い寄せられていく。


 雛香ちゃんの手が、俺の腕を強く掴む。俺はがむしゃらに身を捩り、歯を食いしばって空を仰ぎ見る。


 右の爪先が、水に触れる。そのまま水面に背中から叩きつけられそうになったところで、再び体が上昇を始める。どうにか体勢を整えた俺は、米粒同然の大きさになった美代を視界に収め、一直線に飛行を開始した。


 槍のように突き出した岩の間を、美代のバイクがすり抜けていく。その岩は数秒と経たないうちに俺の前へ迫り、行く手を阻む障害物となった。


 俺は咄嗟に身体を右へと傾ける。俺と雛香ちゃんの背中を掠めるように岩が過ぎ去るのを確認し、姿勢を戻すため身体を捻る。

 

 「え……」


 見上げた空の一部を、赤い帯が流れ去る。


 ガラスのように硬質で透き通った質感に反して、若木の枝のようにしなやかに湾曲している。


 それは、俺の背中から伸びていたあの帯だった。二本の帯は身体の動きに連動して翻り、姿勢が元に戻ると同時に後方へと流れて真っ直ぐに伸びた。

 その姿は帯というよりも、翼と呼んだ方がしっくりくるような気がした。


 「前見て!」


 美代の叫びが両耳に刺さる。衣服の一部に過ぎないはずの翼で冷たさを感じたことに、疑問を抱く余裕はなかった。足元で弾けた水が帯の先端に付着し、風を受けて僅かに体温を奪う。


 美代たちの前方で、川が大きく盛り上がった。下から押し上げられた水は風船のように膨らみ、あっという間に崩れて波となって押し寄せてくる。


 思わず背後を振り返る。迫り来る濁流はいつの間にか高さを増していて、追いつかれたら呑み込まれてしまうだろうということは容易に想像できる。


 前後から迫る水、左右には崖……。俺は素早く頭を回転させ、逃げ道は上にしかないと確信する。背中を丸めて膝を折ると、何もない真下を蹴って垂直に上昇した。

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